『落葉松』「第2部 文芸評論」 ③ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 3」
二、参河行在所
参河に至った持統太上は何処を行在所としたのであろうか。三河アララギの御津磯夫氏の「引馬野考」によると、それは宮地山であって、頂上に行在所跡の碑が建てられているという。(もっとも碑の建設は近年である。)現在も紅葉の名所でハイキングコースになっている。宮地血山は海抜三百六十三米というから、本坂峠(役四百米)よりは低い山である。東名高速道路の音羽・蒲郡インターを降り、名鉄の赤坂駅のそばにそびえる山である。山頂より三河湾をよく眺めることができる。名鉄と東海道が並行しており、音羽川も並行して流れて南へ下り三キロほどで、御津町御馬の三河湾に注いでいる。
この御馬の地が三河の引馬野であり、河口が安礼の崎であるといわれているのが三河説である。上陸地はこの御馬の地であろう。宮地山に登るのにも近いからである。三河の国府も近くである。しかし、ここが安礼の崎であるとするには、地形的に少し無理ではないかと思う。御馬海岸も当時と(後述するが浜名湖(遠江淡海)もそうであったように)現在とは違っていたと思われる。
三河御幸の時の、『万葉集』の十三首の歌は、五七ー六一、二七〇ー二七七である。五七は引馬野、五八は安礼の崎、五九、六〇は本文に関係ないので省略して、六十一は的方の歌である。そして二七〇ー二七七の八首は、五八と同じく高市連黒人の作である。そのうち、近江や山城の歌はこの時ではないかも知れない。還幸路より外れるからである。
高市連黒人は『万葉集』に全部で十八首の作があり、全部旅の時の歌であるが、参河行幸の時が約半分を占める。黒人は宮廷歌人であったと見られる。そのうちの
四極山(しはつやま)うち超え見れば笠縫(かさぬい)の島
漕ぎかくる棚無し小舟 (巻一の二七二)
五八の安礼の崎について文明氏は三河湾の西岸の西浦半島の先端の御前崎(ごぜんさき)に擬しておるが、ちょうど伊勢より三河への航路より遠望出来る岬である。この四極山は大阪の摂津とも、又この御前崎に近い幡豆町か吉良町あたりではないかとも言う。笠縫の島は前島(兎島)であろう。文明氏も、摂津とすると笠縫の島は遠浅の海で海中になってしまうと言っている(『私注』)。同じように棚無し小舟が出て来るということは御前崎(安礼の崎)と四極山が近い所であることが暗示される。同じ作者の参河行幸の時の参河での作であろうかと推定される。
引馬野が浜松であるため、安礼の崎を新井(現在の湖西市新居町)の海岸であるとする説がある。古代の浜名湖は現在とは大分おもむきが違っていて、太古天竜川が都田辺りより浜名湖に注いでいた名残りで、土砂の隆起により南半分は埋っていて、今の湖西辺りから磐田原台地へかけては台地の続きであった。天竜川は既に現在の位置を流れていたが、村櫛半島などは、まだ形成されていなかったのである。そして、湖のはけ口として、浜名川が一本遠州灘に注いでいたのである。新居の西南部に、そのあとと思われる水帯が現在残っているという。
外洋は荒い遠州灘であるし、ましてや冬の季節である。小さな棚無し小舟が漂うのは無理であろうし、伊勢から参河へ行く途中の船の上からの作歌であると思われるので、四極山の歌と関連して、安礼の崎は、御津の地にしろ、御前崎にしろ、三河湾内であるというのが私の推論である。
それにこの時代、既に新井という地名の書かれた木簡が、伊場遺跡から発見されている。
「辛卯(かのとう)年十二月新井里人宗我部○○○」
この年は持統五年(六九一年)であるから、参河御幸の十一年前に当たる。新井という地名が既に存在しているから、わざわざ安礼の崎と歌われることもないのではなかろうか。浜名川の河口には「崎」と呼ばれそうな岬は存在しなかったと思う。