『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑦ 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく 下』
「二十年四月十五日 出撃決定す」
「戦友はこの二、三日私がつかれた顔をしていると心配する。私は私の死というものに対してある解釈をえようとしていたのである。」
「出撃は二十日頃、あと二十日の命である。私自身が少しづつゆらぐのではないかなどという不安がないでもない。」
出撃を前に五月頃、帰郷が許されて、入隊以来一年半ぶりに和田は沼津の実家に帰省した。
「父母の顔を見たら、何もかもぶち明けてしまいそうな気がしてならない。」
彼を迎えて、両親は何かを感じ取った。妹たちを電報で呼びよせて、短い休暇を水いらずで過ごした。若菜も兄と二人で千本浜を散歩して、写真館で永遠の別れとなった記念の写真を撮った。若菜はまだ小学五年生であったと妹たちは語っている。
若菜は、後年、この時のことを次ぎのように短歌に詠んでいる。
回天出撃目前の兄と知らざれば
海に石投げともにたわむれぬ
一度出撃した和田は戦果をあげ得ず帰光した。
「残念也 無念也 何の顔あってか出戻りの姿を光にあらわさむ。三十一日、再びイ三六三潜にて出撃予定なり。」
手記はここで途絶えている。意気消沈してしまったのであろうか。最後の日となった七月二十五日の訓練に、和田は手記や私物一切を士官のトランクを借りて、それに入れて回天に乗り込んでいる。訓練なのに、何故私物一切を持って回天へ乗り込んだのであろうか。
今となっては何もわからない。そして海底につっ込んで二度と浮き上がらなかった。その場所は私の工場の前の海だった。
瀬戸内の鏡のような夕凪ぎの周防灘を見ていると、且ってここが戦場であり、多くの若者たちが、死出の旅路にい出立ったところとは考えられない。
沈んだ回天内で酸素が無くなって息絶えるまで、和田は何を考えていたのであろうか、無言の抵抗をして何も書き残していない。
戦いは終った。しかし和田は戻らなかった。が、台風が守護神となって彼を助けた。九月、猛烈な台風が周防灘より日本海へ抜けた。枕崎台風である。沈んでいた回天が、荒れた波に揉まれて浮上し、山口県の東端、上の関の長島の入り江に流れついた。和田はあぐらをかき、座ったまま眠るように死んでいた。死んでも横になれない何と非情なものであった。
いつの日にか兄の回天流れ着きて
瀬戸の小島に立ち見むと
若菜
私は今の若者に、この手記をすすめる。
且ての若者たちが、いかに真剣に戦争に対して、又死に対して悩み、生長していったかを知って貰いたい。私たちは、彼らの死は決して無駄死にではなかったと思っている。
あとがき
戦後五十年、私が抱きつづけてきた「回天」がこの作品で、陽の目を見ることが出来たことは大変喜ばしいことです。
靖国神社境内の「遊就館」に全長五十メートル実物の人間魚雷「回天」が飾られているそうです。「回天」作戦とは一体何だったのでしょう。潜水艦での出撃延三十二隻、特攻隊員延百四十九名、戦死・殉職者合計百余名、戦果は油槽船他二隻。これだけのために優秀な若き学徒を始め、多くの兵員を消耗した戦争のおろかさを痛感します。
徳山の大津島の回天基地跡に回天記念館があります。山口放送(徳山市)のディレクター礒野恭子氏が、和田稔の人格に魅せられて、テレビ・ドキュメンタリー「使者たちの遺言 回天に散った学徒兵の軌跡」を作成し(一九八五年)、芸術祭優秀賞、キャラクター賞、放送文化基金大賞など数々の賞を獲得いたしました。私のこの拙い感想文とともに、和田稔が望んだ彼の柩に捧げる頌歌となれば幸いです。
「昭和が終わっても、なお終わらぬものに目をそらすことなく、生きつづけるものでありたい。」と三浦綾子氏は『銃口』のあとがきで、しめくくっています。
戦後五十年経っても、依然として戦後は終わっていません。終わらぬものがいくらでもあります。私たちの世代は、反省の意味からも、目をそらすことなく果敢に立ち向かっていかねばなりません。
回天については次のような参考書が出ております。
・鳥巣建之助『人間魚雷』新潮社、八三年
・神津直次『人間魚雷回天』図書出版社、八 九年
・横田寛『ああ回天特攻隊』光人社、七一年
・伊藤桂一『落日の戦場』光人社、
・礒野恭子『愛と死の768時間』青春出版 社
・読売新聞社会部『特攻』角川文庫、八四年
◎この文章は、静岡新聞社・SBS静岡放送主 催「第十六回文庫による読書感想文コンクール受賞作品」(平成六年十一月二十日)です
< 「戦後文学は古典となるか」へ続く >