雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 あとがき ー 月の沙漠 」
戦後編 あとがき ー 月の沙漠
「自分史」という言葉を使うようになったのは、色川大吉が書いた『ある昭和史(自分史の試み)』(昭和五十一年、中央公論社)からだと言われている。その「はじめに」に、次のように書かれていてる。
「私たちは何のために過ぎ去った半世紀をふりかえろうとしているのだろうか。歴史は病めるおのれを映し出す鏡のようなものだといわれる。昭和五十年を迎えた今、この本を庶民生活の変遷から書きおこし、十五年戦争を生きた一庶民、私の〝個人史〟を足場にして全体の状況を浮かび上がらせようと試みた。今こそ、めいめいが、〝自分史〟として書かねばならないものだと思う。」
私は、大体知っているが、子供、孫たちになれば、中谷家はどこの馬の骨か分らないのでは恥ずかしいだろうと思って、書き残しておこうと、二十年ぐらい前から資料などを集めてきたのである。
祖父「卓二」については、陸軍被服廠関係の辞令と、被服廠の歴史を研究されている森谷宏氏(東京都北区在住)にお世話になった。
「陸軍被服廠 中谷家文書 全三十四点」は、平成十五年十月上京した折、森谷氏と陸軍被服廠のあった赤羽に属する「東京都北区行政資料センター」に、資料専門員・保垣孝幸氏の立会いのもと寄付した。これで私の長年の肩の荷が降りた。病気や入院治療などのため遅れて、実危ぶまれた程であった。
父「福男」は祖父の辞令や、短歌雑誌「アララギ」その他の文集から大体判明した。父は浜松地方における短歌界の草分け的存在であった。その歌から家族の動静を知り得た。
私自身については、何も言うことはない。覚えている事実と資料を横の軸とすれば、私の信念を縦の軸として、織り成した織物のようであるが、使う人によっては、ゴワゴワと硬かったり、あるいはス・フ【ステープルファイバー】ののように肌に合わず、用を成さないようなこともあるかも知れない。読む人によって各人各様であるのは仕方ないと思う。そうかと言って、それぞれにおもねる訳にも行かず、自分流で行くほかなかった。
一昨年の平成十四年十一月に、子供や孫たちが私の八十歳の傘寿を、岐阜の奥飛騨温泉郷の福地温泉で祝ってくれた。家内は金婚式にも出られず、この日も入院中で、出席出来なかった。無念という他ない。
私たち夫婦の行く道も先が見えてきた。童謡「月の沙漠」の銀の鞍のラクダに、病める妻を乗せ、同じく病む私も金の鞍のラクダにまたがり、二人並んで月の沙漠をはるばると、北原白秋の詩「巡礼」(『白金の独楽』所収)の「真実一路の旅なれど、真実鈴振り思い出す、真実一路の旅を行く」を思い出し、真実を探しながら砂丘を越えて行こう。
(平成十六年=2004年)
編集後記
父・節三が今年【2013年=平成二十五年】三月三日で九十才を迎えました。九十才の記念に、これまで父が書きためた自分史と文芸評論を一冊の本にしようと企画しました。子供たち夫婦三組(兄夫妻、私たち、妹夫妻)で財政を分担して、次男の私が編集しました。
なんとか一冊の本としてできあがりましたが、明治から平成に至る日本の近代史~現代史の中の父や中谷家の歴史、また浜松の短歌などの近代文芸史としても、まとまった叙述になったと思います。
皆さんが、この本を読んだ感想などいただければ幸いです。
雨宮智彦(次男)
☆2017年8月のブログ注 まだこれから「自伝 補遺」「文芸評論」などを掲載します