『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑥ 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく 上』
Ⅲ 2 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく』
ー和田稔『わだつみのこえ消えることなく ー回天特攻隊員の手記ー』
筑摩書房 昭和四二年 単行本
角川書店 昭和四七年 文庫 絶版ー
この本は、学徒出陣で海軍に入隊し、回天特攻隊で事故死した東大出身の和田稔の学生時代から亡くなるまでの手記である。
和田の父親がこの手記を大学ノートに写しながら、それを読み返すのを日課としていたとおう。悲しみを踏み越えて、晩年死期の近づいた時、やっと息子の死と自分の死とを分ち合える境地になった。父親の死後、この手記はやっと出版されたが、和田の死後、二十年の歳月が必要だった。
戦後の昭和二十一年十月、私は山口県光市にあった光海軍工廠の跡地に建設されることになった食塩製造工場に赴任した。この事が私と和田稔の出会いとなったのである。工廠は終戦前の八月十四日に大空襲を受けて壊滅し、多数の犠牲者を出した。まだ曲がりくねった鉄骨がむき出しのままで、雑草がはびこっていた。工廠内の一部では、既に武田薬品が操業していた。塩もやっていたので、ある日、私は見学に行った。
武田の製塩場は工廠の東の端の方で、その一角に赤さびた鉄骨とコンクリート壁がむき出しのままの建物がそのまま残っていた。そこだけが何かぽつんと荒れた感じだったので変に思ったが、そこが人間魚雷の光回天基地の跡だった。
当時は人間魚雷と聞いても、何かわからず、この本が二十年後に出版されて、やっとその詳細がわかって来たのである。
もっとも昭和二十三年に発表された宮本百合子の戦後第一作「播州平野」にそのおもかげが書かれている。百合子が夫顕治の光の実家に滞在していた時のことである。
「工廠の海岸の浜つづきに、板三枚ほどの幅の埠頭が入り江に向って突き出されていた。夜になると、そっと軍人が集まった。そして人間魚雷が発射された。搭乗した特攻隊員で還るものは決してなかったし、大洋まで行ったものさえもなかった。(中略)住民たちは、それらのことをすっかり知っていた。が雨戸を締めて、誰も知らなかった。なぜならその附近は厳重な出入り禁止であったし、すべては知ってはならないことであった。」
手記は学生時代のⅠ部と、戦いの草稿のⅡ部に分れているが、その間に遺留のノートが弟妹のために残されたが、主に妹の若菜に呼びかけている。
「若菜、私は今、私の青春の眞昼前を私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に開くことはなかった。私の柩の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春の頌歌であってほしい。」
彼の望んだ花とは何だったのか。今となってはわからないが、自分の死を悲しまないで、讃めたたえてくれと遺言している。
回天とは、魚雷を改装して人間一人が中に座れる場所をつくり、魚雷の先端に爆薬を着け、海中を潜行して敵艦に体当たりして玉砕する一人一殺の殺人兵器である。ハッチを閉めてしまうと、中からは開けることは出来ない鉄の棺桶であった。
回天要員は学徒兵と予科練生によって編成されていた。和田は回天を希望し、長男だったので失格したが、再度熱望して採用された、光回天基地へ着任したのは昭和十九年十一月末であった。連日、きびしい訓練がつづいた。
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