『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑧ 「戦後文学は古典となるか 1」
Ⅲ 3 戦後文学は古典となるか
1 はじめに
戦後六十年経った。私も八十歳の坂を越えた。戦後六十年を「戦後の定年」だとか「戦後も還暦だ」と言った人がいた。
六十年の時間差を埋める作業は決して楽ではない、と島田雅彦(以下、敬称略)は言っているが(文献①)柘植光彦の司会による川村湊・富岡幸一郎三氏の座談会「戦後派の再検討」(文献②)の中で、戦後も六十年経てば、戦後派作家といわれた椎名麟三や野間宏の名前すら知らなくなり、むろん戦後文学など読まれなくなっている。
中国人のジャーナリスト・莫邦富(もうばんふ)も「私に取材に来る日本のメディア関係者に必ず「大岡昇平の『野火』を読みましたか」と尋ねることにしている。しかし、読んだという人は残念ながら、一人もいない。」(文献③)
なぜ読まれなくなってしまったのか、読まれないまま消滅してしまっていいのだろうか。消滅させないとしたら、現代文学はそこから何を学び、何を受けつぐべきであろうか。さらに、富岡幸一郎は「戦後文学は古典となる可能性もある」と言及している。
古典というと『古事記』や『万葉集』など古代のものを考えるが、西郷信綱は「古典と呼ばれるものはどこにあるかといえば、それは過去と現代のあいだ、つまり過去に属するとともに現代にも属するという他ない。その作られた時代とともに滅びず、現代人に対話を呼びかける潜在力を持ったものが古典である。」と言っている。(文献④)
日本がアメリカと戦争をしたということすら知らない人がいる現在、戦後派作家の名前など知らないのは当然かも知れない。むろんその作品など読まれなくなったのでは古典とはいえず、読み継がれていかなければならないが、果たして戦後文学がどういう運命をたどったか検討してみたい。
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