▽今も残る浄土宗 善然寺
◆寺町を冠する町名は、「寺町一丁目」「寺町二丁目」「寺町三丁目」「寺町四丁目」の4町でした。
(他に本通を挟んだ西側に「西寺町」もありました。)
この寺町4町は、通りの南側が文字通り寺町で多くの寺院が並んでいて、北側は町屋だったということです。
1940年の静岡大火後、ほとんどの寺が都市計画により沓谷(くつのや)地区などに移転させられ、
寺がほとんどなくなってしまったことにより、町名もことごとく変更されてしまっています。
この通りの南側のお寺が立ち並んでいた部分は、
新通一丁目、駒形通一丁目、常磐町三丁目などに再編、
北側の町屋部分は梅屋町、常磐町二丁目などに再編され、残った部分は「駿河町」に町名が変更されています。
(したがって、慶喜関連の「葵町」と違って、「駿河町」には特別意味合いはないと思われる。)
たとえ寺がなくなったとしても、
町名まで変える必要があったのか疑問に思うところですが、
当時は町名も文化財などという考え方など全くなく、
寺がなくなったのだから“抹香臭い町名”は変えてしまえと言った程度の発想しかなかったのでしょう。
せめて通りの名前に生かしてほしかったと思うのですが、
これも安易に駿河町通りと名付けられています。
(但しこの「通り名」、あまり定着していないようです。)
「寺町一丁目」は、本通五丁目交差点から新通一丁目交差点までの通り沿いで、
現在はほとんど特長のない通りなのですが、
南側には善然寺が移転をまぬがれて残っています。
▽現在は裏どおりのような普通の街並み
◆「寺町一丁目」は、現在の本通五丁目の一部、梅屋町の一部、新通一丁目2番の一部の東西の通り沿い約1丁の町でした。(町名変更は1945年)
(地図では分かりにくいが、善然寺の入口は寺町通りに面している。)
◆多くの寺院が移った沓谷地区
寺町二丁目へ
◆方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって寺町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。
◆その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。
◆寺町を冠する町名は、「寺町一丁目」「寺町二丁目」「寺町三丁目」「寺町四丁目」の4町でした。
(他に本通を挟んだ西側に「西寺町」もありました。)
この寺町4町は、通りの南側が文字通り寺町で多くの寺院が並んでいて、北側は町屋だったということです。
1940年の静岡大火後、ほとんどの寺が都市計画により沓谷(くつのや)地区などに移転させられ、
寺がほとんどなくなってしまったことにより、町名もことごとく変更されてしまっています。
この通りの南側のお寺が立ち並んでいた部分は、
新通一丁目、駒形通一丁目、常磐町三丁目などに再編、
北側の町屋部分は梅屋町、常磐町二丁目などに再編され、残った部分は「駿河町」に町名が変更されています。
(したがって、慶喜関連の「葵町」と違って、「駿河町」には特別意味合いはないと思われる。)
たとえ寺がなくなったとしても、
町名まで変える必要があったのか疑問に思うところですが、
当時は町名も文化財などという考え方など全くなく、
寺がなくなったのだから“抹香臭い町名”は変えてしまえと言った程度の発想しかなかったのでしょう。
せめて通りの名前に生かしてほしかったと思うのですが、
これも安易に駿河町通りと名付けられています。
(但しこの「通り名」、あまり定着していないようです。)
「寺町一丁目」は、本通五丁目交差点から新通一丁目交差点までの通り沿いで、
現在はほとんど特長のない通りなのですが、
南側には善然寺が移転をまぬがれて残っています。
▽現在は裏どおりのような普通の街並み
◆「寺町一丁目」は、現在の本通五丁目の一部、梅屋町の一部、新通一丁目2番の一部の東西の通り沿い約1丁の町でした。(町名変更は1945年)
(地図では分かりにくいが、善然寺の入口は寺町通りに面している。)
◆多くの寺院が移った沓谷地区
寺町二丁目へ
◆方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって寺町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。
◆その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。