▽ 昭和通りの起点付近にある「宝台院」バス停
旧宝台橋交差点近くにあるバス停「宝台橋」が何の前ぶれもなく
2011年10月11日の時刻改正時に「宝台院」に変更されていました。
宝台橋は、地上を走っていた東海道線をまたぐ橋として1936(S11)年3月17日に開通しました。
静岡の町なかと駅南地区が
地上を走っていた東海道線によって分断されていた時代には
南北を結ぶ幹線道路はこの宝台橋と八幡踏切ぐらいしかありませんでした。
(他に静岡郵便局裏手と泉町を結ぶ中央地下道というのがありましたが・・・)
この橋も東海道線が高架となった1979年に使命を終えて姿を消しました。
宝台橋という名称は、もちろん近くにある
徳川宗家ゆかりの寺、宝台院 にちなんだものです。
(宝台院は正式名は「浄土宗 金米山 寶臺院(こんぺいざん ほうだいいん)」ですが
静岡弁に時折みられる濁音の清音化のためか「ほうたいいん」という人が多いようです。
例「~するので」→「~するんて」、「りんざいじ(臨済寺)」→「りんさいじ」
したがって、宝台橋も「ほうだいばし」でなく「ほうたいばし」という人が多かったようです。)
この宝台橋、大勢の人が招集された戦時中は
この橋の上から出征兵士が乗った列車を橋に群がって見送ったということです。
また、在来線の急行や特急が華やかしころには
この橋の上からいろいろな列車を眺めて楽しんだ方も多いかもしれません。
この宝台橋がなくなってから既に30年以上の歳月が経っているので
バス停名として残っていた方が奇跡的だったのかも知れません。
それでも、バス停名もなくなり
かつてここに宝台橋という橋があったことさえ
忘れ去られてしまうと思うとちょいとさびしいです。
宝台橋の変遷
(ブルー=橋部分)
1)当初、北側は国道1号から斜めに昇り
南側は旧大里村役場前(大浜街道)方面にまっすぐ伸びていた。
2)1960年代に入り新幹線建設が本格化すると
南に延びる部分が新幹線の高架橋に抵触するためループ状に改められた。
3)1970年代の後半になると東海道線静岡駅付近の高架化工事が
2)1960年代に入り新幹線建設が本格化すると
南に延びる部分が新幹線の高架橋に抵触するためループ状に改められた。
3)1970年代の後半になると東海道線静岡駅付近の高架化工事が
新幹線に張り付ける形で始まるが工事が進んだ段階で、
このループ状の部分が高架橋に抵触するため逆コの字型にされた。
(宝台橋西側から安倍川までの区間の部分高架は60年代に完了していた)
(宝台橋西側から安倍川までの区間の部分高架は60年代に完了していた)
4)東海道線の高架化完了(1979年10月9日)に伴い宝台橋は撤去。
都市計画道路宝台院下島線(昭和通りを南側へ延長する道路)が開通。
※ 戦後,まもなくの国一側の宝台橋の写真がこちらの七間町のサイトに掲載されています。
下の写真には松坂屋、昇り口にあった(写真では右手)石屋と現在は静岡駅南口にある東照宮300年祭記念塔が確認できます。