「さんさ時雨」の記は公民館講座の今回版である。元武蔵野大学教授である山蔦恒氏がS54年念願叶って硫黄島を訪ねた時の記録であった。前大戦当時少年であった彼には戦争に確たる認識などありよう筈もなかったが、東北からの応召兵が多かった事と、恩師二人を亡くした事もあり心情の奥底にひたと疼き駆りたてる思いがあって、頼み込んでヤット遺族団のメンバーに事務局員として同行させてもらったと言う。
常のことだが、講師は手作りした資料を自分で朗読し解説を加えながら進めた。その日の講座は思いの詰まったもので心に沁みるものだった。28年前船に揺られて待望の島に近づくさま。船中で奇しくも両先生と同じ大体の人に会ったさま。戦傷であろう体型の変形のままに聞いた2人の死にゆくさまなど。
漢文の先生は、ある日突如として日本刀を背に単身洞穴を飛び出し機銃斉射になぎ倒された。教練の先生は、栄養失調で殆んど動けない状態のまま洞窟内で火炎放射を浴びた。一番外側にいたため半身を焼かれ暫く苦痛に耐えていた後「俺も駄目だよ」の言葉を残し、壕の外によろめき出し自身に銃を放った。その時一番奥にいて助かったのがこの私だとその人は言った。
次々と壕は潰され最後の洞窟に追い詰められた夜、僅かに生き残った部下達と別れの宴を開いた。食物も水さえなく、ただ湿った泥を布にくるみそれを皆で吸い合った。1人の兵士が嗄れ果てた声で「さんさ時雨」を歌ったが、その永別の歌声はとてもこの世のものとは思えなかった。薄明、重傷の隊長に別れを告げ兵は思い思いに敵中に切り込みついに1人も帰らなかったと言う。
~さんさ時雨か萱野の雨か 音もせで来て濡れかかる~ 「さんさ時雨」は東北の民謡で本来はめでたく、格調高い歌で祝宴には欠かせないとされているらしい。死におもむく切ない挽歌になろうとはと講師は話した。私は映画で見ていた各シーンの映像と、今日の話がオーバーラップし息詰まる思いで聞いていたが、「さんさ時雨」の段になって涙が溢れ暫く顔を上げることが出来なかった。