玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*良寛さん

2008年07月01日 | 捨て猫の独り言

 自転車通勤のコース沿いには市立図書館の分室が2つある。たまに立寄って覗くのが新着本コーナーである。そこですぐに立ち去る時の方が多い。つい先日の平凡社別冊太陽の良寛(聖にあらず、俗にもあらず)にはすぐに手が伸びた。その中で良寛という生き方と題して立松和平氏が年代順に解説している。その他には良寛の肖像画や遺墨などを眺めて楽しめるページが多い。

 曹洞宗の開祖道元の名を知らない人でも良寛さんなら知っている。つい最近まで私もそうだった。とてつもなく難解な正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を著わしたのが道元禅師であると私が知ったのはつい最近のことだ。そしてなぜか今ではその方面への私の関心は大きい。良寛は22歳から34歳まで岡山の玉島(倉敷市)円通寺で峻烈な修行している。そこで正法眼蔵にも初めて接し、深い感動を得たという。

 1828年柏崎市の北にある三条市で大地震が起こり死者1413名という大惨事があった。この時の友人への有名な見舞い状がある。「災難に逢時節には、災難に逢がよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」 これと感応する正法眼蔵の言葉は 「自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり」 ということになるらしい。正法眼蔵はあくまでも難解である。

 別な本で吉本隆明氏のきわめて直截な文章を見つけた。「良寛は十年間修行して曹洞宗の師家の印可をうけている人だったわけです。しかし曹洞禅の流れのなかに良寛をいれようとしてもはみ出してしまうものがあります。良寛は誰に会っても、子どもにも村の人にも礼拝するのです。そういう仕方のところで良寛は曹洞禅をはみ出してしまったわけです。当然師匠の死後、寺を継ぐべき資格がある人だったが、本山から住職が来て、じぶんは寺を出て、修行しながら郷里の越後にかえって、隠遁生活をすることになるわけです。そこで、はみ出したものは文学のかたちをとるわけです」 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする