「碁会所で見てばかりいる強いやつ」というのは碁に関する古川柳である。アマはプロと違い碁で食べてはいない、だから気楽に打てるはずである。それなりに碁を楽しめればそれでいい。ましてや血が沸きたつような碁ができたなら望外の喜びである。そこでアマには勝ち負けは関係ないよと言いたいところだがそうはいかない。負けると悔しい。だから勝負を避けたい気持ちも湧く。先の川柳の逃避の気分を私も理解できるようになった。週に一度の公民館の碁会で2または3局の勝負が習慣になってからである。毎回ある程度の緊張感を持って私は勝負に出かける。
私の碁の基礎知識が増えるに従い、一局の碁の過程はまるで人の一生の歩みにも似ていると考えるようになった。あるいは碁とは格闘技であるとも。縁側で碁を打つご隠居といったようなイメージはどこかに吹き飛んだ。そのことを碁というゲームを知らない人に説明したいのだが難しい。その一つの方法として最近手にした一冊の囲碁の本の中の文句を目につくままに拾い出してみた。囲碁とはどんなゲームかを少しでも知ってもらえたらと考えたからである。
「その場で何をしたらいいか分からない場合は、今までの流れをおさらいしましょう。それまでは見えなかった相手の欠陥や自分の弱点に気付くことも少なくありません」「相手の狙いにすべて受けていたら形勢を損じてしまいます。反撃すべき場面でしっかり自己主張できれば、もう一段上のレベルに駈けあがれるでしょう(攻撃は最大の防御)」これらはさしずめ人生訓か。現在の私が最も注目している碁の格言は<サバキはツケ>である。軽く柔軟な石の形を作るためにはまず相手の石にツケる(contact)のがよいという意味である。
「命は助かりますが明るい展望は見えてきません」「両者が真正面から組み合い、力比べが始まりました」「両者の気合いがぶつかりあい、目まぐるしい展開です」「一歩でもひるむとやられてしまいそうです」「生きるか死ぬかの非常事態なので形にはこだわっていられないのです」「いじめが楽しみです」碁は気迫が激突するゲームである。精神の格闘技ということか。しかし気迫みなぎる着手でも音高く石が打ちおろされることは少ない。闘志は秘されることが多い。(写真2枚は国分寺駅前の殿ヶ谷戸庭園)