玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*台湾(一)

2015年04月06日 | 台湾のこと

 来週3泊4日の台湾旅行に出かける。そこで図書館で資料をさがした。出会ったのは2009年に出版された片倉佳史著の『台湾に生きている「日本」』である。著者は1996年から台湾で暮らし、日本統治時代の遺構や歴史遺産の調査記録に心血を注いだ。本の中に「終戦から60年以上の歳月が過ぎ、小学生だった少女も齢80に手が届く老婆となった。しかし当時の出来事は今もしっかりと胸に残っているようだ」とある。世代交代してゆく中で、ぎりぎり間にあった貴重な証言も数多く記録されている。この本で知ることとなった事項をいくつか記すことにした。

 1895(明治28年)下関条約によって台湾は清国の統治を離れ日本に割譲された。そこから終戦の1945年までの50年間が日本の統治時代である。初代の台湾総督である樺山資紀は白州正子の祖父である。そのとき樺山と共に西郷隆盛と奄美の愛加那との子である西郷菊次郎も参事官心得として台湾に渡っている。菊次郎は1897年から5年間宜欄(ぎらん)支庁長を務めた。治水工事に尽力し、宜欄河の堤防は西郷堤防と呼ばれ、「西郷憲廳徳政碑」という石碑が郷土史跡に指定されて残っている。帰国後京都市長(6年半」などの任に就いた。(写真は3月30日の散歩にて)

  

 西郷堤防のことは今回初めて知ったが、台湾東北部の宜欄という地名を、私は亡き父から聞かされていた。沖縄作戦が始まった頃に、父が台湾軍下の飛行師団に属する飛行戦隊の隊長であったとき、部隊は師団の命令により特別攻撃隊に指定された。父の部隊の戦死者は15名だったという。その飛行場のあった場所が宜欄である。かつて北と南に東の海岸に向って伸びた二つの飛行場があった。いずれの飛行場も遺棄されて雑草の中だった。著者は水田の中に残る北飛行場の格納庫を撮影し、そこで特攻隊出撃の日を正確に覚えていた老人に出会う。南飛行場の敷地は工業団地を造営する計画が進行中だという。北が海軍、南が陸軍の飛行場だったのではないかと私は思う。

 今回の旅行では宜欄を訪れることも、つぎの関心事項である国立台湾博物館を訪れることもない。第四代総督の児玉源太郎は後藤新平を民生長官に任命し、全面的な信頼を寄せて統治を委任した。後藤は徹底した調査事業を行った上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。二人の統治により日本は台湾を掌握することに成功したと言われる。戦後の国民党政府による破壊をまぬがれて、二人の銅像がドームを抱いた西洋建築の国立台湾博物館の収蔵庫に保管されているという。後藤はその後満鉄総裁、拓殖大学学長、1920年から東京市長(3年)、1923年の関東大震災直後には帝都復興院総裁として震災復興計画を立案している。

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