弘文は要請を受けて1967年に横浜港を出発し、ヒッピー発祥の地サンフランシスコを経てカリフォルニア州の奥地のタサハラに着く。アメリカは1965年に北爆を開始し、戦争は1973年まで続いた。ベトナム反戦運動や公民権運動を中心とする反体制運動が生まれ、若者たちは親の世代と異なる価値観を見いだそうと必死だった。
アメリカの若者たちはヒンドゥー教、ヨガ、マインド・クリーニング、禅などの、あらゆる方法で精神世界を探求しようとしていた。なかでも「禅はクール!」と受け止められて、日本からやって来た禅僧の袈裟や所作など、何から何までカッコよく映ったようだ。そこでは東洋から渡ってきた禅僧たちは一種のアイドルだった。
日本とは異質の文化のただ中に飛び込んだ弘文が悩まないはずはない。渡米した年に、弘文がタサハラの山小屋に一カ月間引き籠るという事が起きた。この事件について著者はエピローグでつぎのように書く。「日本の禅や、自我をも捨てて、アメリカの風塵に全身全霊を捧げ、任せる。これが弘文が山小屋でひとり、煩悶の果てに導き出した答えだった」
弘文は32歳でハリエットと結婚をして長男・泰道と長女・よしこが誕生し46歳で離婚が成立。ドイツ人のキャトリンと2度目の結婚で第一子・タツコ(弘文57歳)、第二子摩耶(59歳)、第三子・アリョーシャ(61歳)が誕生。著者が苦労のすえやっと会うことができたタツコはつぎのように語る。「母は父の弟子たちに対してよい感情をもっていません。父が門弟を家族よりも大事にしたことや、彼らが父を神聖視したことに反感を抱いているようです。いくら弟子たちが崇め奉ろうと、家にいるのは酒びたりの人なのですから、母の気持ちもわかろうというものです。父の前妻のハリエットさんも同じようなことをいっていましたね」