玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

母と新聞

2007年01月12日 | ねったぼのつぶやき

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 今の生活に何が一番欠かせないかと問われたら「新聞」と答えるだろう。テレビ、ラジオはなくてもいい。新聞だけは離せない。TVで知っても新聞で読まないと何か欠落しているようで落ち着かない。猫殿には申し訳ないけれど船に乗るときも暫く新聞が読めないのが一番気がかりだった。そんな訳で我が家の食卓の一角には1週間分の新聞が積まれることになる。切抜き、読み返しのためにboxに入れられない。

 思えば母がそうだった。彼女は更に裏が白いチラシまで積んでいた。チラシは家計簿計算用の用紙だった。いつもそうやっていたので、計算機を買い与えようと言ってみたら「これで間に合うからいい」と言った。年末には婦人雑誌を求めて付録の日記付き家計簿を手に入れていた。寝込むまでやっていたのだが、日記と家計簿記入はきっとボケ防止に効を奏したと思う。ほぼ半日新聞の隅から隅まで読んでいた。

 80才を過ぎて大腸癌になった。どんなに落胆しているかと帰省してみると「癌で良かった。脳卒中でなくて」とケロリとして手術を受けた。切り取られた癌は鮮やかな色をしていた。手術室から出てきた母の体には7本のチューブが付けられていた。腰椎(背中)に麻酔、患部に2本廃液チューブ、鼻に酸素、胃には胃液を外に出すための胃カテ、胸に栄養、膀胱に排尿カテーテル。

_095_1 この年齢になると入院、手術、長期臥床そのことだけでボケ症状が出易い。手術を終えるとなるべく起こしておくことに重点を置いた。術後の夜は良く寝てくれた。2日目おかしい。妄想のような言葉が出る。「困った、強がりの発言をしていたけれど本当は気に病んでいたんだ」と思った。幸いなことに痛みをコントロールするための背中のチューブを抜いたら落ち着いてきて安堵した。患部のチューブは1週間は置かれるので動作時は痛む。起こしておくために新聞を日参して持ち込み、3日目頃から読み出し日毎に伸びて、これで事無く回復できると確信できた。

 最後に床に就いたのは母がもっとも懸念していた脳卒中で、その後2~3年で発症した。最初の頃は何とか新聞を見たり「足元に百万円落ちていても拾えもしない」と嘆いたりもしていた。退院後は施設で過ごさざるを得ず記名された服を着て1年余そこで過ごした。私は飛び飛びにしか帰省できなかったが新聞を持参して母の状況を観察した。そこには加速度的に衰えてゆく母がいて、没後4年を過ぎた今でも私を悲しくさせる。せめてもの思いで母の名前が書かれた夏用パジャマの1組を私は愛用して 「母の娘」 をしている。(鹿児島のシンボル桜島は錦江湾の奥に位置し市内のあらゆる物と対面している。写真は南州墓地)

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