情報公開というある種の狂気の現れが、世の中にあると言ったら、なんだこいつ、とにらまれるだろう。
狂気といったのは、情報公開には、「出せ、見せろ、聞かせろ」という群集心理的要素が付きまとい、それが煮えたぎり沸き上がると、何もかも洗いざらいという行き過ぎも、当然であるかのように扱われるおそれがあるので、心しなければならないという意味である。
公開は、秘匿、隠蔽より気持がプラス側に向く言葉なので、何でも明るみに出すのがよいことだと思われがちである。
情報の公開を求める人にもいろいろあって、何かわけがあって知りたい人と、わけもないのに知りたい人とに大別できる。
本当に知りたい理由をもつ人はごくわずかで、とにかく知りたいという人のほうが圧倒的に多いのではないかと思う。
たとえ知りたい理由があったとしても、それがわかって次はどうするとなったときに、何かが改まるとか、世の大勢の人のためになるとか、そういうことはごくわずかの部分でしかないだろう。
公開という行為の裏側には、未公開、非公開の部分が必ずある。
情報のいちばんだいじなヘソのようなものは、未公開、非公開の部分にあるので、それを賢しらにちびちび漏らすことで、人の心を引きつけようとするのが、情報公開にかかわることがらでは最もたちの悪いやり口なのだが、それがまた一種のビジネス様式に化しては公開のプラスの相がマイナスに反転してしまう。
公開というからには、知らないほうがよかったでは意味を成さず、その効果が未来によい影響を与えるものでなければならないであろう。