人口2万人の町で行った400人の退避実験から、渋滞で動きがとれなくなるということがわかったという結果が出ましたが、この実験は成功したのか失敗したのか、どちらでしょうか。
実験が、不幸なことに、成功も失敗もせず、どちらでもなかったという場合には、どう考えればよいのでしょうか。
折角やってみたことに難癖をつけたくはありませんが、どうやらあの実験は、どちらでもなかったという困ったことのように思われます。
なにか新しいことでは、アイデアをつぶしたくないというだけの理由が、目的にすりかわってしまうのはよくあることです。
「まあ、やってみて結果を見ながらどうしていくか考えよう」これはいちばん簡単な進め方のようでありながら、いちばん後始末のしにくい方法にもなるのですが、はじめはそれに気付きません。
まずやってみるということが迎え入れやすいのは、考えたり話し合ったりすることを嫌う人が、ほとんど何も考えず、話し合いも日時や参加者を決めるぐらいで、すぐ「実行に移せる」からです。
町ぐるみ総員退避などということは、元来実験ができないことなのですが、できそうもないことをあえて実行に移しても、多くの場合「英断」と見られて非難を受けません。
かつては、机上の空論という批判用語がありました。
I T時代の今では、実験にもならず、効果を判定しようもない実行動のほうが、場当たりの空ごとに変わっていると思わなければならないでしょう。この場当たりの空ごとは、大災害発生時に、いても立ってもいられず現場へ強引に行って見ようとする要人の姿がよい見本になります。
実験不可能なことには、シミュレーションという方法のあることを知っていながら、「机上の空論」と言われたくない、そしり恐怖症を制しきれない空気が、まだ残っているのかもしれません。
人を動かしてみることが、実験にもならなかったとしても、退避実験ではなく退避演習であったと考えればよいではないかと、慰めることはできます。
だがしかし、2%でもやらないよりはましと、言っていてよいことなのかどうか、ではどうすればよいのでしょうか。
それを考えるのが、役所の仕事です。
役所の仕事にも、前例のないことに目を向け、手を付けていく、そんな実験が必要になってきそうに思っているところです。