旬の時期、初夏に似合いのこの言葉は、味覚とのかかわりで心地よさを生み出します。
同じこの言葉も、年頃のことや、まつりごとの頃合などで、味覚以外の感覚とのかかわりが増してくると、少しずつ嫌らしさや疑わしさが加わってくるから不思議です。
時がだいじであることには、「旬」と遠い親戚にありそうな「間」があります。
どういうところが似ているか、それを両方の概念以外のところから言葉の道具を持ってきて言い立てることは、はなはだ面倒です。
似ているほうは面倒でも、違いのほうは比べてみればすぐに答が出ます。
旬と間とは日という字を囲んでいる文字の部品が違います。
「つつみがまえ」という部首がありながらその仲間には入れられず、囲まれた「日」が部首になっている旬の字と、「もんがまえ」の配下にされている間の字、そんな違いは見つけてみたところで意味はなさそうです。
しかし、時とのかかわり方の違いいをみると、少し興味が湧いてきます。
旬は、その時期であるかどうかがものを言い、間はよしあしが肝心なところであるということです。
間のよしあし、これがまた曲者のようなのです。
よしあしと言うからには、間がよければ優れているかというと、そうでもありません。
間のよすぎることには、どこか疑いがもたれます。
家宅捜査や査察調査で、ダンボールを持った人の行列が、TV放送されることがあります。
誰にも知らされず突然行われなければ効果激減がわかりきっていることなのに、それがなぜTVのニュースになりうるのか、いかにも間がよすぎます。
家宅捜索と同時に逮捕状を突きつけられたという間のよさに、早朝のその場面にマスコミの記者が居合わせたという間のよさも加わったという事件もあるそうです。
科学論文が発表された1週間後に、たくさんの論文の中から、挿入した画像がその論文のその位置に入るべきものと違っている特定の論文を見破ったと言う人も出てきます。
これもいかにも間がよすぎます。
こんな話が次々に出てくると、間は魔物としか言いようがありません。
間という字の、日が四角に囲まれているのと、捜索査察の場面に映されるダンボールの形、論文の画像の形とに、妙な符合を感じて思うことは、四角張ったものには魔物が、間のよすぎることにはウソが潜みやすいのではないかということでした。