論点というほどの改まったことでなくても、何かをキチンと話し合うことには、みな抵抗を覚えます。
話はいい加減なほうが面白く聞こえて、お互いに楽だからです。
D I Y、だじゃれ、言い逃れ、やじ、これは話の三楽です。
三楽でも五楽、九楽でも、それが方法であるうちは、面白くもあり、楽しくもなれます。
けれども、この「楽しく」が方法の域をまたいで目的にされてしまうと、とたんに興が冷めます。
X活と名づけられるいろいろな集まりに何度参加しても、求めてきたXにめぐり合えないのは、目的のXが忘れ去られて、いつの間にか「楽しい」ほうだけに、ことがすり替えられているからでしょう。