・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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合理性を集めると大きな合理性になるか

2014年05月19日 | つぶやきの壺焼

鶏インフルエンザが怖いので、生きている鶏を買うというのは、合理的な選択でしょうか。
生きているうちにという人は、鶏肉になるまでの加工過程で感染の危険が大きいからという理由をもっています。
加工過程の実態をよく知っているからこそ、その選択ができるので、理由が通る範囲では多分合理的なのでしょう。

人間が考えてすることは、ある範囲でだいたい合理性をもっています。
たとえ行き当たりばったりに見えても、錯乱状態でさえなければ、その人にとって、そのときにそれを望み、そのとおりにしたのだという、理屈があるでしょう。

しかし、それぞれに合理性をもった行為も、考えの及んだ範囲のもう少し外側のことまでよく考えてみると、範囲を広げたり集めてみたりしているうちに、合理性が転回して全体では合理的でなくなってしまうこともあります。

自衛権というのは、法律で決めなくても自明のことです。それには理屈など要りません。
これが集団的などと奇妙な言葉と組み合わさると、どこかに不合理な、なぜそんなことまでしなければいけないのかというところにまで足を踏み入れる状況をつくってしまうおそれがありそうなのも、合理性のかき集めとどこかに似たところがあるような気がします。

そうそう、集団的合理性などという言葉はなかったのでした。

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