「きご」と書けば、ほとんどの方には俳句のことかと受け取られるでしょう。
ここに書いて置こうとするのは、俳句の季語ではなく、日常の感覚ではどこか不思議に聞こえるような、しかしたびたび耳にするのでそうでもないような、奇妙な言葉に、「奇語」という書き袋を用意してみたということなのです。
「寄語」は伝言の言い換えですから違います。
「綺語」はよた話です。これと薄い姻戚関係の匂いは感じても、まじめな顔をして言われるものをよた話と言っては失礼でしょう。実を言えば袋の見出し文字はこれにしたいと思いながら、避けることにしました。
「奇語」は、元来思いもよらない言葉をさすようで、しばしばお目にかかりながら珍しいとは言いにくいのですが、新語でなく最も近そうなという意味で、この名前にさせてもらいました。
さて、ひとつめは「全身全霊」、着任のあいさつによく聞かれる言葉です。
全身はからだ全体、全身打撲という災難用語もあって、痛々しい感じさえします。
全霊、これが解しにくい部分なのですが、全霊に部分はないと野次も聞こえそうです。
魂のすべて、心のすべて、そんなことを言っても、その人の魂自体がどれほどのものなのか、自分でもわからないでしょう。
人の命にひと区切りついたとき、あの人はこの仕事に全身全霊を捧げたのだとほめたたえる、あるいは尊敬の念を表す、そのための言葉ではないかと思います。
これからどうなることやら、見当もつかないうちから全身全霊などとなぜ言えるのか、そこで気付きました。
全身全霊とは、どうなることやらの言い換えではないかということです。
一切不明、無の状態、平たく言えば何も考えていない、ということなのでしょう。
おや、全=無、全と無は対立概念ではなく共通概念でしたか。