・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

自由に束縛されることは幸せか

2014年11月25日 | つぶやきの壺焼

何をするのも、何を聞くのも、何になるのも、すべて自由、日本はよい国です。
ただ行ってみたいだけの見知らぬ地、ただ聞いてみたいだけのもともとない理由、ただなってみたいだけの異教徒、見ることも、たずねることも、変わってみることも、自由であるがために、ひとには何をしているのか見当のつかないこともあります。

何ごとも自由でなければならないというある種の妄信は、拍手の数さえ多ければ、どんなことでも、まずやってみようという気にさせます。
困ったことに、自由の縄に縛られていますから、自分では拍手さえもできません。
自由でなければならないという雰囲気のなかで、動きが取れないままに動く、矛盾そのものの行為をさせられてしまうのです。

そんなときは、憲法でこのときに限りと決められたことにさえ、例外づくりも拡大解釈も、自由でなければならないと思いこんでしまいます。
最高裁からこれはだめと言われたことでも、権限の限界も自由でなければならないと思えば、何度でもだめと言われることに苦痛も悔恨も感じません。

幼児性は、個を見るときにはこよなくいとおしく、人々の顔をほころばせます。
しかし、本人も周辺も気付かないうちに、権力行使に幼児性が現れたときには、うっかり微笑んではいられなくなります。
一億数千万の人々を縛る自由の縄が徐々に太くなり、捲きつける数もだんだん増えていきます。

さて、お地蔵様、ときにはこの縄を振り千切る自由に、思い至ることはないのでしょうか。

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