・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

望ましい自然の摂理を妨げない発明

2014年11月26日 | つぶやきの壺焼

2015年という世紀の節目を、あと40日足らずで迎えようとしています。
15年がなぜ節目か、その説明を求めたがる向きもあるでしょう。
お答えいたします。「そういうのを野暮と言います」

何かを新しくしてみようと提言するとき、新しくするそのことには、ほとんど理由がないことが多いのです。
新しい感覚に乗り換えるきっかけづくりが、強いて言えばその理由になるでしょう。

21世紀初頭から7分の1世紀の間には、オトボケ総理が何人も出てきて、日本もだいぶひどい目に遭いました。
国民にとっては、それは誰のせいでもなく、自業自得だったのです。
節目の理由を考えることがなぜ野暮なのか、自業自得を自嘲してみてもはじまらないからです。

七曲がりのはじめの角を曲がったら、大発明が生まれるとよいと思っています。
そのひとつは、善悪行に対応してはたらく寿命調整装置です。
善は栄え、悪は滅ぶ、これが自然の摂理であってほしい、その逆は通常の感覚をもった人間ならだれも望まないでしょう。
しかし、事実はそうはいきません。
人間一人ひとりがかたくななものだからです。
善悪の感覚は、判断のその前に、自業自認を曲げることはありません。
気がついたときには悪いことをしていた、よくある話です。
生まれたときは、成長の結果を見分けることはできせんが、育つ間に善悪の素性はほとんど決まってしまいます。
悪の素性を、身に塗りたくられてしまった人は、半世紀50年、その間に切り替えができなければ、この世に生きている間の転換はほとんど望み薄でしょう。

長寿礼賛は、ゴミの分別よりだいじな分別対象だと思っています。
永らえないほうがよい命も、なかにはあるのです。
それは、世の中に害悪しかもたらさない人の命です。

善行悪行の度合いに比例して寿命が調整され、悪行しかできない人にはこの世からなるべく早く退散してもらう、そういう装置の発明を期待しています。
なぜ機械にそれをさせるのか、人間には、善も悪もすべて平等という、奇妙な考えにこだわりを持つ人が、案外多いからです。

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