愚報に二種類あることに、いまさらながら気づきました。
ひとつは知らせ方の愚かさ、もうひとつは知らせる中身そのものの愚かさです。
これまで知らせ方ばかりに目を向けていましたが、知らせることがらの愚かさのほうが、がっかりする度合いがなお強そうです。
「国有地売却問題で、財務省近畿財務局が作成し、途中で書き換えた文書は14あり、一つの文書から交渉の経緯などを削除しようとしたところ、玉突きで次々に書き換えせねばならなくなった」
このニュースからは、どういうことがどう書き換えられ、その書き換えにどれほどの問題があるのかは何もわかりません。
生活が豊かになると、公務員はこういうことが仕事になり、それがどうしたというようなことが、政府の困惑のタネに仕立てられます。
顔だけは正直者らしく、さも真面目そうに無為な時間つぶし問答に明け暮れるさまが報じられるこれらのニュースは、中身の噴火口が知らせ方の外輪山に取り囲まれたような愚報の山並みになります。
これらの山は、ふもとからでは愚の全貌を見ることが難しいものになるのがまた厄介なことなのです。