ものごとの真贋には、よく確かめておかなければならないことと、どちらでもよいことがある。
不思議なことに、よく確かめておかなければならないことは、得てして「まあいいではないか」で済まされ、どちらでもよいことの突っ込みには多くの人が夢中になるという現象が多い。
真贋追究に固執する心は、まるで宗教のように人々を動かす。
N町にも、真贋宗XX派と呼べそうな空気環境が出来上がっている。
真贋が確かめられると、結果からどういうことが得られるのか、そんなことは、そこの空気に浸っているとどうでもよいことらしい。
人を引き付けるこの魔力は何なのだろうか。