・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

あつかましいという言葉の意味

2014年05月16日 | つぶやきの壺焼

あつかまし・い【厚かましい】ずうずうしい。恥を恥とも思わない。
これは、ずっとお世話になり続けている新潮国語辞典:久松潜一監修の語訳です。

たちまち脱線しますが、「語訳」という熟語をこれまでに使ったことがないのを、あらためて認めなおしました。
たいしたことでもないものごとを、あつかましく再認識と書くのは照れくさいので、ここではあらためて認めなおしと書いておきます。
これも「語訳」という扱いの仲間うちかもしれません。
辞典の「語訳」を「意味」と言ってしまうと、それは誤訳になりそうです。
意味もあれば言い換えもあり、変幻自在でピタッときそうな言葉が見つかるところが辞典の魅力でもあります。
辞典の肝心なこの部分を、今日改めて「凡例」の編集方針の説明を読むまで、「語訳」と呼ぶとは知らなかったのです。
そんなことも知らずに、雑記ブログも書いていますなどとメーリングリストで宣伝するのはずいぶんあつかましい話ではないかとも思います。
これで「あつかまし」の用例が二つできあがりました。
少し違うところがあっても、あつかましくこうだと言ってしまえるのが、ブログの気楽さでもあります。

脱線から元に戻すのを何と言うのでしょうか。
復元にしておきましょう。
3階だったか4階だったか、どちらでもよいので忘れましたが、集合住宅の鉄筋コンクリート建物のすぐ脇の地面が陥没しました。
地面に突然開く大穴をシンクホールと呼ぶらしいですが、倒壊寸前に助かった建物の基礎が現れ、それが厚さ5センチほどのコンクリートだったという、ゾッとするような話があります。
そこで建物の復元に採られた対策が、シンクホールの側面をベタベタ固めておしまいというから驚きです。

さて、技術の自慢をする国で起きたこういう話は、「あつかまし」の用例になるのでしょうか。

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温度差も膨張したのか

2014年05月15日 | つぶやきの壺焼

昨日は夏の風、今日は春雨気温、エルニーニョのいたずらでしょうか。
いや、地球のいたずらがエルニーニョでしょう。
ああ言えばこう言う頭のはたらきも、お天気次第です。


初夏に老骨に鞭打って登山を試みる人が増えてきました。
体も気構えも、ちょっとその気分ぐらいのところで、誘われたから出かけていく、そういうときには危険もお供についてきます。
なだれる雪もなくなっただろうと、予断と油断が重なれば、一事が惨事になります。

積雪は減っても、気温は大きく変わります。
1000mで10℃変わると、ついこの間だれかが放送していました。
むかしは5℃といわれていました。3℃という人もいたのに、消費税が上がると、山の気温差も上がるのでしょうか。

温度が上がるとモノは膨張します。
気温差も膨張するようになったのかと、脳のすきまも膨張して、むだ話も膨張、奇妙な連鎖です。

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新しい病気はどこから生まれるのか

2014年05月14日 | つぶやきの壺焼

毎年新しい病名が耳に入ってきます。
医療の研究が進めば、別段新しい病気でなくても、症状の要因にこれまではっきりしなかったことが説明できるようになると、前の病名ではこうだとされていた症状の埒外になるので、病名を変えなければならないのではないかと、われわれ素人は考えます。

「病名の生まれるもとは分析」と、誰かが言っておられました。

はじめて聞く病名は、新しい病気ではなく、名前が変わっただけなのかもしれません。
そういえば、「新薬」という言葉はあっても、「新病」とはニュースにも出てきません。
それでよいのです。
新薬は人々を安心させても、新病は人々を不安にするでしょう。
病気が九層倍になられたのでは、たまったものではありませんから。

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バランスが崩れるのはつまづくからではなかった

2014年05月13日 | つぶやきの壺焼

うっかり何かにつまづくと、転びそうになります。
転びそうになるのはバランスが崩れるからで、バランスの崩れる原因はうっかりにある、だからうっかりしなければよいのだと順を追って納得します。
世の中で起きるたいがいの事故は、うっかりをなくせばなくなると言われます。そうでしょうか。
「うっかりはだめだぞ」「うっかりするなよ」と言い続けたところで、効き目はさほどありません。

ギリシャに、四元徳というわれわれ凡夫にはどこかが足りなそうな徳目があります。
思慮、正義、忍耐、節制です。
徳の反対は悪徳で、蛮勇、横暴、卑劣、貪欲だと言う人もいます。
自分に向かって眼を凝らしてみると、後の四つのほうが近そうなのが情けないところです。

四元徳は、技芸の才能とは違って、どれかに秀でていればよい、とりえがあればまあまあ、というものではありません。
バランスがだいじなのです。


歩いてつまづくのも、うっかりするのも、アンバランスがそうさせるのです。
はじめにつまづくからバランスが崩れるのではなく、注意力のバランスが崩れているからつまづく、そして体のバランスがまた崩れるのでした。

うっかりはつかまえようがないので、それだけやめようと思ってもまくいきません。
何によらずバランスに気を配っていれば、うっかり癖も抑えられます。
何かをするときには、まともにしなければバランスが崩れます。何でもかでも愉快な気持でなどと、そんなに都合よくはいきません。
むきにならないようにと思い過ぎれば、まともさとのバランスがまた崩れます。
だらしのないほうに傾きやすいのは、自然界の法則どおりのことですから、まともの反対側に意識を向けて行けばバランスはたちまち崩れます。

バランスが崩れはじめると自復力を失うことは、積荷のバランスを軽視した船舶の、あの非常識事故の例でもはっきりわかります。
なんでもいい加減に、すんでしまえばそれまでという会社ぐるみの性癖が、だいじなところでバランスを保ち得なかった不幸な結果をもたらしたのです。


呑み会の帰りに「靴、ちゃんと履けますか」と言われたわけがわかったような気がします。

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かき集めだけでは智恵半分

2014年05月12日 | つぶやきの壺焼

税金は、元気を沸き立たせ景気上昇に役立つ効果があります。
集められるものが、智恵を絞り、汗を流して働いて得たものの一部だからです。
あぶくゼニが税金の対象にならない理由は、税金の質が落ちるからです。仲間に入れてやってはいけないのです。

税金を、集めるだけのものと思ってしまうと、はじめに言った「役立つ効果」は出て来ません。
集めるまででは智恵半分、集めたものをどう使うかをしっかり考えるまで行って、ようやく智恵八分です。

あとの二分を埋めるのは、集め方の工夫です。
集める工夫と言うと、どう増やすかを考えがちですが、それでは、そこでまた集める工夫の智恵半分でしかありません。


消費税という、智恵を絞るには格好のものがあります。
いまのところ、増やすぞ増やすぞということしか、政治家の声が聞こえてきません。
できるだけ増やしていく、そのためには、何度も何度も増やすと言って、増えることがあたり前と思うように仕向けていく、そう考えているうちは、やはりまだまだ智恵半分です。

ためしに、消費税を予告なしに2%下げてみたらどうでしょう。
購買力は急上昇するでしょう。
次にいつまた上がるかという不安感を、そこで利用できるなどと考えるようではいけません。
それではプレゼントの値打ちが下がります。

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言ってはならない言葉とは

2014年05月11日 | つぶやきの壺焼

日本道路交通情報センターには、放送で言ってはならない禁句があるそうです。
それは「空いています」という言い方です。
それを聞くとそちらに車がワッと押し寄せて、放送がたちまちウソになってしまいます。

そのときには空いていたので失言でも虚言でもなかったのですが、放送の結果が次の状態を変えてしまって、言ったことがそのとおりでなくなるおそれが少しでもあれば、それは禁句なのでしょう。

言葉は伝わったそのときから、そのあとの人の心を動かします。
心の動きは、それからの一生をつくっていきますから、相手の人の生き方にかかわるようなことは言ってはならないことだと思います。このことは余命の長短には関係ありません。

「死」という言葉は、自分のこと以外には禁句にしておいたほうがよいでしょう。
それを話の種にして、問答を繰り返すのはよくないことです。
元気付けのためなどという言い分は、身勝手なことでしかありません。


たびたび聞けば軽く受け流せるようになる言葉と、そうでない言葉は、一人ひとり違います。
取り戻しのきかないそれからの一生のことは、自分に向かっては自業自得ですが、自分以外の人のそういうことは、軽々しく口にしてはならないのです。
子どもがメール文で使う「死ね」という軽率語がありますが、それだけは言ってはならないと止めさせましょう。

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熱で説明すれば何でも納得しやすい

2014年05月10日 | つぶやきの壺焼

体の具合がちょっとと言われると、熱はないのかとたずねます。
自分の体も、おかしそうだと思うと熱をはかり、出ていなければ安心します。

熱力学には、法則があって、第一から第三まであるそうですが、その手前というか根っこのところに第零法則まであるときくと、この法則の適用範囲のとてつもない広さが想像できます。

熱心、熱意、情熱、温度差と、人間の感覚まで熱で言い表されることが多いのは、熱で説明されると、およそ何でも納得させられてしまうからでしょう。
この法則の一部分に「エントロピーは増大する」ということがあって、これが何にでもあてはまりやすいのが納得への効き目の根源になっていそうです。

「でたらめさの尺度」とされるエントロピーは、増大を妨げる行為を仕掛けなければ必ず増大に向かいます。
人間の常識の世界も、この法則の例外ではありません。
人間の生活で、いちばん付き合いやすく馴染みやすいのは「でたらめ」です。
相変わらず頻発する乗り物事故、作業過失、製品故障に、智恵のなさやでたらめさを絵に描いたようなことが多いのは、企画者、設計者、作業者の常識弱体化によるものと思います。
ある場合には、失敗すれば疲れがたまってと言い、その前に自分で疲れ過ぎを制御できなくなっていることに気付きません。
またある場合には、失敗すればやり方を知らなかったと言い、実は言われたとおりかどうかさえそっちのけで、でたらめのことをやっているのに気付きません。

早くて便利が幅を利かせすぎ、安価な労働力集めとフールプルーフの効果がいきわたりすぎて、非常識が作業服を着て仕事をしているような現場があちこちにできれば、とんちんかんな事故が起きるのはあたりまえなのです。

こういう仕事のさせ方、工夫する力の育たない製造工程を、世界にばらまくのは、罪深い仕業ではないかと、グローバルさんたちは考えたことがあるでしょうか。

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間のよすぎることはウソくさい

2014年05月09日 | つぶやきの壺焼

旬の時期、初夏に似合いのこの言葉は、味覚とのかかわりで心地よさを生み出します。
同じこの言葉も、年頃のことや、まつりごとの頃合などで、味覚以外の感覚とのかかわりが増してくると、少しずつ嫌らしさや疑わしさが加わってくるから不思議です。

時がだいじであることには、「旬」と遠い親戚にありそうな「間」があります。
どういうところが似ているか、それを両方の概念以外のところから言葉の道具を持ってきて言い立てることは、はなはだ面倒です。
似ているほうは面倒でも、違いのほうは比べてみればすぐに答が出ます。

旬と間とは日という字を囲んでいる文字の部品が違います。
「つつみがまえ」という部首がありながらその仲間には入れられず、囲まれた「日」が部首になっている旬の字と、「もんがまえ」の配下にされている間の字、そんな違いは見つけてみたところで意味はなさそうです。

しかし、時とのかかわり方の違いいをみると、少し興味が湧いてきます。
旬は、その時期であるかどうかがものを言い、間はよしあしが肝心なところであるということです。

間のよしあし、これがまた曲者のようなのです。
よしあしと言うからには、間がよければ優れているかというと、そうでもありません。
間のよすぎることには、どこか疑いがもたれます。

家宅捜査や査察調査で、ダンボールを持った人の行列が、TV放送されることがあります。
誰にも知らされず突然行われなければ効果激減がわかりきっていることなのに、それがなぜTVのニュースになりうるのか、いかにも間がよすぎます。

家宅捜索と同時に逮捕状を突きつけられたという間のよさに、早朝のその場面にマスコミの記者が居合わせたという間のよさも加わったという事件もあるそうです。

科学論文が発表された1週間後に、たくさんの論文の中から、挿入した画像がその論文のその位置に入るべきものと違っている特定の論文を見破ったと言う人も出てきます。
これもいかにも間がよすぎます。

こんな話が次々に出てくると、間は魔物としか言いようがありません。
間という字の、日が四角に囲まれているのと、捜索査察の場面に映されるダンボールの形、論文の画像の形とに、妙な符合を感じて思うことは、四角張ったものには魔物が、間のよすぎることにはウソが潜みやすいのではないかということでした。

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なんでも計算というわけにいかないこともあった

2014年05月08日 | つぶやきの壺焼

 x/0 は数値の答が出せません。
計算できないことになっているからです。

計算できないとされていることには、答える自由はありません。
何か答をひねり出して、これが正しいと言ってみても、それは認められないのです。
自分だけは正しいという言い分のきかないことが、ここにありました。

よく耳にする「では愚態的に」にお答えしましょう。
2球投げて、たて続けにホームランを浴びて退場した負け投手がいました。
この場合、防御率の計算はできません。

防御率=(自責点÷投球回)×9
この式は、投球した回の自責点平均値を、通常の1試合9回に引き伸ばして換算するとどうなるかという値です。

ひとつもアウトを取れずに退場したのですから、投球回ゼロで、その試合の範囲では計算ができません。

それにしても、防御できなかった割合で低いほうが優れているという防御率という言葉は、何ともわかりにくいです。

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血液事業の総合管理はどうなっているのか

2014年05月07日 | つぶやきの壺焼

公共の乗り物の事故は、思ってもいない災害に人を巻き込みます。
気温の急変する初夏、残雪の空気を味わいたくて山に登る人の遭難とは、全く異質の事故です。

細かい規程が定められていても、それだけでは完全な安全維持はできません。
どこかに手抜き手落ちがあれば、それだけで事故の原因になりえます。
細かい事柄のもう一つ外側から、抜け穴や緩みを見つけ出す確かな眼が働いていなければ、実行規程があるから大丈夫とは言えないのです。

細かい規程さえ決めておけば、事故が起きても規程を守らなかった人の責任というやりかたは、組織の維持には役立っても、事故の発生防止には効果がなく、いつかは同じ事故がまた起きます。


近ごろ大はやりの手術ドラマも、そろそろ見飽きて不快を感じるようになりましたが、輸血の場面からふと思ったのは、
献血で集められた血の管理が、どんな具合に行われているのだろうかということです。

血液製剤に関しては、「安全な血液製剤の安定供給の確保等に関する法律」という法律があります。
「この法律は、血液製剤の安全性の向上、安定供給の確保及び適正な使用の推進のために必要な措置を講ずるとともに、人の血液の利用の適正及び献血者等の保護を図るために必要な規制を行うことにより、国民の保健衛生の向上に資することを目的とする」とされています。
また、「医師その他の医療関係者は、基本理念にのっとり、血液製剤の適正な使用に努めるとともに、血液製剤の安全性に関する情報の収集及び提供に努めなければならない」と使い方や情報管理のことも定められています。

しかし、血液事業として集められた血液が、血液製剤になる以前にどう管理されているのか、細かい事柄の外側のだいじなところが、はっきりわかるようになっていないのです。
赤十字の事業に、管理の不安はないと思いたいからそう考えている、そんなことはないのでしょうか。

血液が届けられるドラマの画面を見ていて、サイバーテロやバイオテロへの防壁のどこかに、想定外のセキュリティホールがありはしないかとの不安が頭をよぎりました。

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薫風と呼ぶにはまだ早いのか

2014年05月06日 | つぶやきの壺焼

薫風は六月の季語、やはり少し早かったかと、五月の風を探してみましたが、風の季語がありません。
見ているのが虚子編の歳時記で、別の編者のものにはあるのかないのか、ひと月ぐらいはずれて、どうこうはないにせよ、気にはかかります。
五月には、卯浪や吹流しがあるので、風が目に止まらないということでもなさそうです。

なぜことさらに風の話かというと、少し前の四月のこと、どういう風の吹き回しか、自動車のリコールが相次いで国土交通省に届けられたというニュースが、とってあったメモにあったからです。
四月上旬のうちに三社も続いたのには、わけがありそうな気がします。
MD社 27,627 台、MB社 6,517 台、TT社 1,0805,000 台、風光るという四月の季語を意識してということはありえないにしても、ここで光って見せたい、見せておきたいなにかがあったようにも思えるのです。

年度始めのご挨拶に、名刺代わりでもなさそうですが、どうなのでしょう。

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実験は演習のかわりになるか

2014年05月05日 | つぶやきの壺焼

人口2万人の町で行った400人の退避実験から、渋滞で動きがとれなくなるということがわかったという結果が出ましたが、この実験は成功したのか失敗したのか、どちらでしょうか。

実験が、不幸なことに、成功も失敗もせず、どちらでもなかったという場合には、どう考えればよいのでしょうか。
折角やってみたことに難癖をつけたくはありませんが、どうやらあの実験は、どちらでもなかったという困ったことのように思われます。

なにか新しいことでは、アイデアをつぶしたくないというだけの理由が、目的にすりかわってしまうのはよくあることです。
「まあ、やってみて結果を見ながらどうしていくか考えよう」これはいちばん簡単な進め方のようでありながら、いちばん後始末のしにくい方法にもなるのですが、はじめはそれに気付きません。

まずやってみるということが迎え入れやすいのは、考えたり話し合ったりすることを嫌う人が、ほとんど何も考えず、話し合いも日時や参加者を決めるぐらいで、すぐ「実行に移せる」からです。
町ぐるみ総員退避などということは、元来実験ができないことなのですが、できそうもないことをあえて実行に移しても、多くの場合「英断」と見られて非難を受けません。

かつては、机上の空論という批判用語がありました。
I T時代の今では、実験にもならず、効果を判定しようもない実行動のほうが、場当たりの空ごとに変わっていると思わなければならないでしょう。この場当たりの空ごとは、大災害発生時に、いても立ってもいられず現場へ強引に行って見ようとする要人の姿がよい見本になります。

実験不可能なことには、シミュレーションという方法のあることを知っていながら、「机上の空論」と言われたくない、そしり恐怖症を制しきれない空気が、まだ残っているのかもしれません。

人を動かしてみることが、実験にもならなかったとしても、退避実験ではなく退避演習であったと考えればよいではないかと、慰めることはできます。
だがしかし、2%でもやらないよりはましと、言っていてよいことなのかどうか、ではどうすればよいのでしょうか。
それを考えるのが、役所の仕事です。

役所の仕事にも、前例のないことに目を向け、手を付けていく、そんな実験が必要になってきそうに思っているところです。

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失敗か成功かこの実験

2014年05月04日 | つぶやきの壺焼

実験は、人が考えたとおりの結果を実際に得られるかどうか、それを確かめるために行います。
考えたとおりにうまくいけば、「実験に成功」したと言われます。
考えたとおりにうまくいかなければ、「実験に失敗」したと言われます。
実は、これはそれぞれにおかしな言い方なのです。

考えたとおりにうまくいったのは、「実験に成功」ではなく、「その条件では考えが正しかった」ということなのです。
考えたとおりにうまくいかなかったのは、「考えが違っていた」か「条件が合っていなかった」か、それとも他に何か理由があったか、それがわかったので、「実験に成功」なのです。

学校で理科の授業で生徒がする実験は、考えたとおりにうまくいくことを、うまくいく条件で行いますから、もしそこで考えたとおりの結果が出なければ、それは「実験に失敗」したということになります。
多くの場合、実験室で教えられるのは、実験に必要な手順や、条件の整え方で、「実験」そのものではないでしょう。
生徒がそれを「実験」なのだと覚え込んでしまうと、実際の社会生活の場で、結果が思いどおりであることが「実験に成功」と思ってしまいます。
そうなると、実験の授業は失敗であったともいえます。


人口2万人の、原発のある町で、重大事故があったときには、2万人のほぼ全員が退避しなければなりません。
退避が果たしてうまくいくのかどうか、町全体の実験はできませんから、400人の退避実験を行ってみました。
人口のたった2%の人でも、いっせいに移動をはじめると、渋滞停頓が起きたそうです。
この実験は失敗だったのでしょうか。
思ったとおりにうまくはいかなかいことが確められ、実験に成功したのでしょうか。

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裁判に目的があってよいのか

2014年05月03日 | つぶやきの壺焼

人の言動のほとんどには目的があります。
目的がつかめない言動は、どこか不気味です。
人が人に何かを言われたとき、目的がわかりやすいと安心できます。

しかし、なかには、あっては困る目的があります。
それは裁判の目的です。
わからないこと、決めがたいこと、それを判定するのが裁判で、こうでなければという目的が、あらかじめ決まっていたのでは、裁判とは言えません。
裁判という手続きを踏むだけの宣託行為に過ぎないからです。

裁判に持ち込まれた言い分どおりか、あるいはその逆か、どちらにせよ、はじめから望ましい結果を求めて行われる裁判は、私刑の性格をもった恐ろしい行為と言わなければならないでしょう。

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空論の正体は空気だった

2014年05月02日 | つぶやきの壺焼

KYという、言葉にはなっていない、口から出る意味を持った記号が、一時はやってすぐ消えました。
KYは、空気読めないとも、空気読むともとれる、どっちつかずの記号でした。
なんでもひと言にしてみようという遊び心が生み出した記号ですから、どっちつかずぐらいで、ちょうど寸法が合うのかもしれません。


人が人を信用するかどうかは、「定見」の有無にかかわります。
こんにゃくやかき揚げのうらおもてのように、最初に上を向いていたほうがおもてだというのでは、見識は定まりません。

定見は偏頗と隣りあわせで、わかりやすい反面嫌われやすいものです。
嫌われるのは、思い通りに変わってくれないからで、人々の多くは、それぞれ自分の、そのときの気分に合うように相手が変わってくれることを好みます。
KYが厭われ、その場の空気にすぐなじみ、その場の空気で動く人が増えれば、人が集まったときには、温存しておかなければならない空気がたちまちできあがります。


永田町の会議場にも、隼町の法廷にも空気があって、その空気にひたりながら人々は論議を交わします。
空気を保つ論議のみが尊重されたとき、そこでおこなわれるのは、ひとことで言うとなんでしょうか。
それは「空論」らしいです。

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