・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

禁止用語にしてはならない言葉

2014年11月15日 | つぶやきの壺焼

阿呆は、あきれかえった所業を指しても、親しみのこもった呼び方です。
しかし、バカは人間の心を持たないヒトをひとくくりにした、いわば総称のようなものです。

バカの始末の悪さは、それが類をなすところでしょう。

台風のさなかに、サーフィンで戻り損なった人の救助のために、人や車が海岸に集まっているそのわきで、まだサーフィンを続けるバカがいるのだそうです。
絶好のチャンスを逃さないためなら、条件も状況もかまってはいられないと言いたいのでしょうが。

もしも、冬の火事を遠くから見ながらたき火をしている人がいたら、それをなんと呼ぶでしょうか。
雷に撃たれた人を乗せた担架を横目で見ながら、雷雨がおさまらないうちにクラブを振っている人がいたら、どう呼ばれるでしょうか。
これには、バカより明確最適の呼び名はありません。

みだりに使うことはもちろんよくありませんが、ほかに表現のしようがないこの形容は、遠慮なくズバッと言ってあげたほうが当ニンの身のためでもあります。
放送禁止用語と言ってメディアが自粛しているのは、バカという単独熟語ではなさそうですから。

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型にはまらず癖は目につく

2014年11月14日 | つぶやきの壺焼

いきなり関脇では荷が重かろう、そうは勝てまいと思っていた逸ノ城、5日目までで3勝2敗、横綱、大関にも同じ星数、いやもっと悪いのもいるのを見ると、やはり強いと言えそうです。

先場所までは、型にはまらない強さかと思っていましたが、変な取り癖もあるようです。
邪魔になりそうなその癖を、すぐに二つも見せながら勝つというのは、よほどの怪力を持っているのでしょう。

悪い癖がいつも出ることのないように、親方がやかましく言ってくれれば、直って目立たなくなるとは思いますが、そう思うのは間違いかもしれません。
そのわけは簡単なことです。
いつも出てしまうのでなければ、それはもう、癖ではなくなっているからです。

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秋の食べもの~しらあえ

2014年11月13日 | つぶやきの壺焼

しらじらしい顔の会談、妙なことで「しらあえ」を思い出しました。
ゆでるか煮るかした刻んだ野菜を、ただ豆腐と混ぜて捏ねまわしただけの、単純なあの食べものには、秋の深さがこもっているような、わずかに寂しい美味さがあります。

その味は、「あえるだけ」という簡単な工程で作られます。
くどいソースもいりません。
並べ方も飾り方もありません。
器以外の見せ場は、せいぜい盛りつけのかたちぐらいです。
しかし、このせいぜいがだいじなところで、器は大き過ぎず小さすぎず、柄合いも味を変えます。
ベチャッと平らに、器に塗りつけたような盛り方はしらけます。
へりにポタぽたこぼれたのは論外です。

しらあえの出来具合は、どこか外交会談に共通のところがあるようです。
それはこれこれなどと、いちいちしちくどく繰り返すのはやめておきます。
つけ損ないの味がまた逃げては、どうにもなりませんから。

会談前の外交戦略もだいじなようです。
仰せつかった人は、鼻の穴も広がっていたことでしょう。わしならあえる・・・。

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評論といういうお仕事

2014年11月12日 | つぶやきの壺焼

TVのトーク番組に招かれて連座でその場限りの相当いい加減なことを喋りまくる人を、評論家と呼ぶことがあります。

熟語には、その後につく文字によって、その熟語がもっているいろいろな意味が浮かび上がってくる性質があります。
その見え方は、匂い淡く霞むような朧月夜のように、周辺の解像度がぐんと下がったものになっているものもあります。
評論という言葉もそのひとつです。

評論のつく熟語では、「評論家」が代表の組み上がり熟語になってはいますが、評論社という出版社もあります。
こういう固有名詞には、いわく因縁があるものですが、いわくのはっきりしないのが評論家という言葉で、代表格のほうがおぼろげ度が強く、そこが評論という言葉のむずかしいところであるような気もします。

評論家は、Wikipedia では評論を職業とする者とされていますが、その職業のあり方は、専業、あるいは兼業、混業と、さまざまです。
専業でないものは、かしらの読みが、カ行に集まっているのがまた不思議です。
ケとコはまだよいとして、官業、勤業、勲業となると、論の働きが、自らとは別のところの駆動装置によるものであるような、しかもそれが、近頃はやりのブレーキを踏まずに衝突を避けられるという、最先端技術によって制御されていそうなものに見えてきます。

職業と言ってしまうなら、評論家ではなく評論業のほうが、呼び名としてはおぼろの度合いを低め、匂いもスッキリしそうです。
前に「ご」をつけて丁寧に呼べば、その匂いも色も一層はっきりしてくるでしょう。

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きご~不思議であるような ないような:1

2014年11月11日 | つぶやきの壺焼

「きご」と書けば、ほとんどの方には俳句のことかと受け取られるでしょう。

ここに書いて置こうとするのは、俳句の季語ではなく、日常の感覚ではどこか不思議に聞こえるような、しかしたびたび耳にするのでそうでもないような、奇妙な言葉に、「奇語」という書き袋を用意してみたということなのです。
「寄語」は伝言の言い換えですから違います。
「綺語」はよた話です。これと薄い姻戚関係の匂いは感じても、まじめな顔をして言われるものをよた話と言っては失礼でしょう。実を言えば袋の見出し文字はこれにしたいと思いながら、避けることにしました。

「奇語」は、元来思いもよらない言葉をさすようで、しばしばお目にかかりながら珍しいとは言いにくいのですが、新語でなく最も近そうなという意味で、この名前にさせてもらいました。

さて、ひとつめは「全身全霊」、着任のあいさつによく聞かれる言葉です。
全身はからだ全体、全身打撲という災難用語もあって、痛々しい感じさえします。
全霊、これが解しにくい部分なのですが、全霊に部分はないと野次も聞こえそうです。
魂のすべて、心のすべて、そんなことを言っても、その人の魂自体がどれほどのものなのか、自分でもわからないでしょう。
人の命にひと区切りついたとき、あの人はこの仕事に全身全霊を捧げたのだとほめたたえる、あるいは尊敬の念を表す、そのための言葉ではないかと思います。
これからどうなることやら、見当もつかないうちから全身全霊などとなぜ言えるのか、そこで気付きました。
全身全霊とは、どうなることやらの言い換えではないかということです。
一切不明、無の状態、平たく言えば何も考えていない、ということなのでしょう。

おや、全=無、全と無は対立概念ではなく共通概念でしたか。

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地図とカーナビ両用は 便利か

2014年11月10日 | つぶやきの壺焼

地図は位置感覚を助ける総合用具、カーナビは方向を指示する部分道具、それぞれ役割が違うようです。

地理不案内のところに向かったとき、カーナビだけを見て、間違わずに目的地に着く人は、よほど感覚の鋭い人ではないかと思います。
カーナビのディスプレイには、いま走っているところしか映りません。
ここで曲がりなさいと急に言われても、それらしくない曲がり角なのでつい行き過ぎ、そこが一方通行だったら、ぐるっと回ってまたそこに来るまでがさあ大変ということになります。

あれはあてにするものではない、と思っていたら、地図とナビ画面の両方が見える、総部合体式の装置も現れました。
両方見えるというのは、どちらかお好みのほうを見なさいというのか、それとも目が二つあるではないかというのでしょうか。
運転しながら、ディスプレイで二つの画面を見て、前後方、側方に気を配らなければならないとは、車というものが、ずいぶん人の神経を酷使するようになってしまったものだと、寒心しているところであります。
そのうえに、さっきの唐揚げには骨が入っていたとか、助手席からも責められてはたまったものではありません。

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勝ち越しの絶対条件

2014年11月09日 | つぶやきの壺焼

大相撲で、絶対勝ち越しできる方法があります。
必要なのは二条件
1.初日に勝つこと
2.連敗しないこと

今日の初日が楽しみです。
半分はふるい落とされるかというと、そうではありません。
もし初日に黒星側にまわっても、二日目三日目と連勝して、その後連敗しなければよいのです。
負け続けても、なか日までは希望が持てないわけではないので、頑張ってほしいと思います。

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足で稼ぐ仕事は何を運んでいるのか

2014年11月08日 | つぶやきの壺焼

客を歩かせない、そして待たせないために走り回る仕事があります。

流通の仕事がそれです。
通販AのCEOは、嫌われ役の第一位というデータもあるそうです。
倉庫内を歩く、というより走るほうに近いのではないかと想像できますが、移動距離1日24kmと言われます。
毎日がハーフマラソン、これは何も持たずにひたすら歩く万歩計で6千歩など、比較にもなりません。
仕事だから、そんなことを聞いているのではありません。

宅配Sでは、搬送中は歩行禁止と聞きました。
歩かずにお届けものは運べません。走るのだそうです。

おや、もう着いた、これなら手間がかからないと喜んでいても、その手間、つまりエネルギーは、品物とは別のところに移動しているだけなのです。

ものの移動エネルギーの総計は変わりません。いや形が変わるごとに少しずつ増えます。
自分の生活に必要なものの移動エネルギーは、別のところに押しやっておいて、自分は何も運ばない運動エネルギーをまた別のところで消費している、これを合理的と思うのはどこかおかしい気がします。
省エネという言葉がすぐ廃れたのは、人間の厚かましさがそれほどひどいものでもなかった証かもしれません。

搬送はロボット化しても、エネルギーは減るどころかどんどん増えます。
人間は、自分が動かない、考えもしない、判断さえもしない、そんなことに向かって研究を続け、それが技術の発達だと思っています。
なくなるはずのないエネルギーの成果は、どこかに向かって移動し集っているのですが、さてどこなのでしょう。

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スマホなしに車中で退屈しない方法

2014年11月07日 | つぶやきの壺焼

ハサミには右手用と左手用があります。
手に持って紙きれでも切ってみればわかりますが、並べて置いてあるハサミから、どちらかを選べと言われたときの見分け方があります。
見分けの原理は多数決です。
こっちだろうという人が多いのを採れという、いまのいい加減な民主主義に使われる多数決ではありません。
差し込む指の数が多い刃が、手前にあるほうを選べば、それが利き手に合っているハサミです。

この写真では、右が右利き用、左が左利き用です。

もちろん、日常生活にそんな選び方は必要ないので、覚えることでもありません。
ふだんは自分用のハサミしか手元に置いてありませんから。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

ここでの主題は、ハサミの選び方ではなく、ハサミを使う利き手のことでした。
電車の中で、前の列に座った人がそれぞれ右利きか左利きかを想像していると、時間の経つのを忘れます。
目の前にずらっと並んでいなければ、順に見ていけませんから、車体はロングシートの縦座席でないと具合が悪いのですが。

本の持ち方めくり方、新聞の持ち方あごの撫で方、飴の出し方袋のむき方、これらを見るとき、見るともなしにというふうでなければいけません。
じっと見つめてしまったら、別の人から想像攻撃をうけるもとになってしまいます。
なんとなく、これがだいじなところです。

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ものの呼び方タテヨコどっち

2014年11月06日 | つぶやきの壺焼

収納は、タテヨコをうまく使うと、ものがよろしく納まります。

電車で出入り口近くにかたまっておしゃべりしている人、ぼやっと立っている人は、たぶん収納の下手な人だろうと想像できます。
その人たちの部屋の中は、きっと、いつも片づけ知らずでごちゃごちゃなのでしょう。

タテヨコと電車、これからちょっと疑問がわきました。

 窓際に横並びになって腰かける座席は、座り方はヨコに並んでも、進行方向や車両の形から見れば座席の位置はタテになっています。
普通の電車で二人ずつ並んで腰かける座席は、座る向きはタテになっていますが、座席の配置は車両のタテ方向と直角、つまりヨコ向きです。

 さて、この二種類の座席はどう呼び分けるのでしょうか。
いまは、決まっていることなら何でもすぐわかる Wikipedia という便利なサイトがあるので、答えはすぐ出ました。
車両のタテに沿ったのは「ロングシート(縦座席)」、タテ方向と直角なのは「クロスシート(横座席)」と名づけられていました。

やはりこういう呼び名は、座ったときの乗客の感覚よりも、車両を設計し作る人の感覚のほうがだいじにされているのでしょう。

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普通であったことが不思議に見える風景

2014年11月05日 | つぶやきの壺焼

昨日は学友との会合で久しぶりに横浜に出て、往きの電車で、珍しく心地よい空気を吸うことができました。

向かいの列に座った、ちょうど定員の8人のうち、新聞3人、本1人、あの板チョコのようなものを目の前にかざした変な姿勢を見せる人がだれもいなかったのです。
神主さんがのりとを唱えるときのようなあの姿で、目の前にずらっと並ばれると、なんとも嫌な気分になるのですが、それがまったく見られず、普通であることが不思議に思える時間でした。
ああこういうこともあるのか、今日は好い日なのだと、降りてからの時間調整のための遠周りにも、足取りが軽くなるのでした。


本の奥さまが持っていたのは新書版でしたが、トートバッグから取り出すときに、引っ張ったのがしおりの紐で、しおりだけが脱け出てしまい、どこまで読んだか、どこから読むのか、しばらくパラパラとやっていましたが、間もなくたどり着いたようでした。


おかげで会の酒の味もよく、耳の遠くなった人の増えたのには閉口しましたが、賑やかで愉快な半日を過ごすことができました。めでたし、めでたし。

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朦朧境界をさまようもうろうじん

2014年11月04日 | つぶやきの壺焼

呑み過ぎて眼の据わってしまった人は、どこか気味が悪いのですが、雑踏の中でまなこの定まらない人も、危なげで近寄りがたいものです。
どこかを見つめているのか、見つめるものが見つからないのか、バーチャルとリアルの境界が朦朧としているかの様子にも見えます。
それが、まるで世間全体の眼を代表しているように見えるとき、地球もいよいよ冬の入り口か、もう温暖化どころではなさそうだと、脇腹を風が吹き抜けるような感じがします。

ふと朦朧人という言葉を思いついて、スペースキーを押したら、「もう老人」と出てきました。ギク!

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略称には珍奇の胚芽が潜んでいる

2014年11月03日 | つぶやきの壺焼

再エネという略称をときどき耳にします。
言葉の調子だけは、はやって消えた省エネを受け継いでいるようにも聞こえますが、再エネと省エネとはベクトルの方向が逆のことがらです。

省エネは、エネルギーをなるべく使わないようにすることでしたが、それではどうも具合が悪そうなことに気づいた産業界は、方向転換を迫られました。
使わない方向から使う方向への転換ですから、そこには工夫が要ります。

何かを考えるときには、仮想であれ現実のものであれ、対立軸をもうけるとまとまりやすいものです。
エネルギーを「使う」対立軸には、幸か不幸か原発という大物が浮かび上がりました。

すでにあるものを「使わない」、再稼働させない、これが天秤の向こう側にどしっと構えたので、「使う」ほうはいろいろな手段を持ち出しやすくなりました。
いくら数を増やしてどんどん積み上げても、天秤がこちらがわにどすんと傾く心配はありません。

再稼働に対立するもの、「再」の対立概念はむずかしいので、「稼働」に目が向きます。
「稼働」には「停止」、しかしそれでは「使う」ことにならないので、「生成」に向かうことになります。
再び生成する「再生」と言いたいところですが、太陽光も風力も潮力も、それを使うことがは「再生」とは言えません。
まさか自然のエネルギーを新生させたとは言えないけれども再生で勘弁してもらおう、そういう人間のテキトウな配慮に苦情が出ることはありません。

名づけてはみたが何となく気が引ける「再生エネルギー」、それを縮めたようなふりをして「再エネ」にし、実際とは違う「生」を取り除いてしまえば、熟語内部での意味は破たんしても、一つの言葉になってつながりが出れば大きな顔をして通れるという、言葉の世界のいい加減さが、問題を具合よくおさめてくれています。


ところで、珍奇熟語の「再エネ」には、もう一つ珍奇な現象がぶら下がっていました。
それは、承認だけ受けて、実際の発電装置建設には手をつけない事業者がいるということです。
風力は空気の動きから得るエネルギーですが、再エネの無着手発電はどういうのでしょう。
発電するふりだけのエア発電とでもいうのでしょうか。

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大成しないプレイヤー

2014年11月02日 | つぶやきの壺焼

スポーツ界には、通りすがりのプレイヤーと名づけたくなるような選手もどきが、ときどき現れます。
選手と呼ばれ、文字どおりであるには、選ばれたやり手でなければなりません。
何らかの条件によって選ばれ、そしてやってみせることのできる手だれです。
選ばれる条件の厳しさ、長続きするかどうかによって、選手の格が定まります。

運の乗ったときだけ、調子の上がっているときだけは勝つことができる、強さ巧さが長くは続かない人に、敬称を進呈したいと思います。

通りすがりのプレイヤー、パッシング・プレイヤー、略してPP、いかがでしょうか。

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読み過ぎれば先が見えなくなる

2014年11月01日 | つぶやきの壺焼

ドラフトに、セカンドキャリアはと質問する記者がいると聞きました。
何でも聞けばよいというこの取材は、先見の明ではなく、先見の迷を招くおそれがあるのではないかと思います。

明日からの行く先もはっきりしていない半分幼児のようなヒヨコ選手に、卵を生み切ったその後はどうするつもりかと聞く人がいては、鶏も迷惑でしょう。

わざわざ先の先を見させようと迫る愚問は、先は見えても足元の石くれに気づかせない、柄の長すぎる闇夜の提灯のようなものだと思うのですが、いかがでしょうか。

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