現実には二通りあるらしい。
一つには あるがまま の現実であり
もう一つは のぞましい 現実。
私達が 足がかりにするのは
いつも 望ましい現実に対して であることが多い。
正月三が日の時間はゆっくりと過ぎる。空気も透き通っている。なぜか天地自然が新たな様子を呈している。・・などと見るのは、あきらかに望ましい現実を私は見ているのだろう。
ゆめか うつつか まぼろしか
精神や心にとっての 望ましい状態。
ポジティブ・シンキング。
あるがままの現実を豊かにするのは、望ましい現実を大いにイメージすることだ。
どちらにしても 三が日というのは 望ましい現実過ぎる。
ある種の アルがまま である。
-自分-
小鳥が枯枝にとまっている
自分がとまっている
見れば 見えるものは 皆自分である
聞けば 音はみなじぶんである
-高橋新吉-
南無煩悩大菩薩。
一つには あるがまま の現実であり
もう一つは のぞましい 現実。
私達が 足がかりにするのは
いつも 望ましい現実に対して であることが多い。
正月三が日の時間はゆっくりと過ぎる。空気も透き通っている。なぜか天地自然が新たな様子を呈している。・・などと見るのは、あきらかに望ましい現実を私は見ているのだろう。
ゆめか うつつか まぼろしか
精神や心にとっての 望ましい状態。
ポジティブ・シンキング。
あるがままの現実を豊かにするのは、望ましい現実を大いにイメージすることだ。
どちらにしても 三が日というのは 望ましい現実過ぎる。
ある種の アルがまま である。
-自分-
小鳥が枯枝にとまっている
自分がとまっている
見れば 見えるものは 皆自分である
聞けば 音はみなじぶんである
-高橋新吉-
南無煩悩大菩薩。