南無煩悩大菩薩

今日是好日也

六識(六根)清浄

2020-06-08 | 有屋無屋の遍路。
(picture/source)

ある日眼が言った。「谷をいくつも越えたところに。青い霧に覆われた山が見える。美しいと思わないか?」

耳はそれを聞き、しばらく熱心に聞き耳を立て、しかる後にこう言った。「でも山なんかどこにあるんだい?僕には聞こえないよ」

すると手が語って言った。「君の言う山を触れたり感じたりできるか試したが、だめだった。僕には山が感じられないよ」

そして鼻が言った。「山なんてないよ、そんな匂いはしないもの」

それから眼はそっぽを向いてしまった。他のものはみんな、眼のおかしな惑乱について議論し始めた。彼らは言った。

「眼はどうかしてしまったに違いない」 -カリール・ジブラン「漂泊者」より


六識(眼耳鼻舌身意)には、それぞれ相手があるものです。

眼には色、耳には声、鼻には臭、舌には味、身には触、意には法(ああはならぬ、こうはならぬという類)、これを六塵という。

目は視るが役、耳は聴くが役、しかも視れども何の色と知らず唯視るのみ、聴けども何の音と知らず唯聴くのみ、これを分別するものは意識でございます。

しかれども、得て悪いほうへ傾き易い意識なれば、俺が俺がが主になって、身贔屓身勝手に使われますと、分別も正しく働かぬのみかかえって固有の明徳を覆い隠して、さまざまの悪しきこと思いつくようになりまする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする