一昨日13日は八一公園に日本語コーナーを設立した博堅先生の送別と、
岡山商科大学から戻ったばかりの江西師範大学の丁勇先生の歓迎を兼ねた宴会があり、
今日15日は、博堅先生が日本語コーナーに来られる今季最後の日ということで、
日本語コーナー活動後、参加者みんなで近くのレストランで昼食会をした。
今度いつ博堅先生が南昌にいらっしゃるか、
そして、その時に私は南昌にいるかどうかも分からない。
普段、何かと言えばすぐ宴会する「南昌ノミニケーション」には少々くたびれていた。
しかし、今回は、また会おうと言ってもその日は来ないかも知れない大切なひと時だ。
「渭城の朝雨軽塵を浥し
客舎青々柳色新たなり
君に勧む更に尽くせよ一杯の酒
西のかた陽関を出づれば故人無からん」
とは、こういう場合にピッタリの詩だなあと一人感じ入っていた。
挨拶で博堅先生が開口一番に言われたのが
「人生は苦しい。そして短い。」
だった。
博堅先生は1933年、福島県で生まれ、戦時下の1944年11歳で中国に戻った。
博堅先生のお父さん、博棣華氏は、
当時福島高商(現福島大学経済学部)で中国語などを教え、
中国に戻ってからは華北交通大学の学長に就任した知識人だった。
博棣華氏は1946年1月から半年間、大学を解放して多くの日本人引揚者を保護し、
天津港から日本に帰したが、後にそれを罪に問われて逮捕され、
出獄後、時を経ずして痴呆になった。
博堅先生は1946年~48年、13歳から15歳の間、
バス会社に雇われたり、新聞売りをしたりしながら小・中学校で勉強した。
1949年、16歳で革命軍に参加し、いくつかの部署を経た後、
朝鮮戦争に少年兵として従軍し、
部隊の士気を高めるために小さな打楽器を打ち鳴らして
戦士を鼓舞する役割を担った。
しかし、なんと「日本関係者」だということで軍隊を追放されてしまった。
それから文化工作団で俳優、脚本・原作執筆など活動の場を得て専心し、
後の江西省歌舞団の実力者としての礎を築いた。
さらに、文化大革命時には4年間下放されたが、
改革開放の時代が到来し、
大阪の戦友会「椿会」の江西省訪問、侵略戦争への謝罪の旅に同行して通訳を務め、
重大な歴史の生き証人にもなっている。
その後も椿会メンバーと交流し続けたために海南島で省政府により監禁されるなど、
時代と国家に翻弄される人生が続き、今年81歳を迎えた。
今日のこの言葉の裏には、こうした多くの事実が横たわっている。
それなのに、どうしてだろう。
博堅先生は中国も日本も嫌いにならないのだ。
博堅先生が設立された八一公園日本語コーナーは来年30周年を迎える。
中国中探しても、こんなに自主的かつ元気に活動している日本語コーナーはないだろう。
(もしあるなら教えて)
現在、博先生は自身が日本語コーナーを設立するに至った経緯などを含め、
江西省と日本との友好の歴史について執筆中である。
本人は「記憶がしっかりしているときの記念に」とおっしゃるが、
脱稿の暁には日本のどこかの出版社が引き受けてくれないかなあ。
きょうだいや身内に多くの大学卒業、大学院博士号取得者、大学教員がいる中、
自分は中学校にしか行けなかったと嘆く博先生は、地位ある人を紹介する際、
「この方は○○大学の博士号を取りました。たいへん偉い人です。」
と言う。
その言葉にいつも苛立ちを覚え、
「じゃあ、学校に行けなかった農民は偉くないんですか」
と要らんことを言い続けたワタシだが、もちろん心情が分からないわけではない。
しかし、最後まで市井の人でありつつ、自分の人生でなしうるベストを尽くし、
偉大なる庶民として、私たちの敬愛する先輩として、命を輝かせていただきたいと、
心の深いところで願っている。