今日、ある中国の方と話していて、一瞬(まさか?!)と耳を疑った。
その方(Aさんとしよう)が厳しい表情で言うには、最近テレビを見ていたら、
また漁船の船長が尖閣諸島近くで逮捕されたとのこと。
映像に両手を括られた船長が映ったという。
少し後で別の中国の方(Bさん)が来られ、
それは2010年秋の事件を再放映したものだと分かった。
しかし、AさんはBさんの解説を受けるまで、
最近、また同様な事件が起きたのだと完全に誤解していた。
このように、人は簡単に誤解する。
お返しに(?)私は、この間NHKラジオのニュースで言っていた
「鹿児島の残留孤児たちが中国の養父母に感謝の碑を建てた」ことは知っているかと聞いた。
AさんもBさんも知らなかった。
「中国のテレビはいいことは1つも知らせず、悪いことばかり教える」
とAさんは憤慨していた。
私も日本のマスコミについて同様に思う。
ところで、日本では、
「こうなったら、自分たちで新しい情報伝達機関を作るしかない」
と動き始めた人たちもいると聞いた。
皆がお金を出し合って、独立系報道教養番組を2013年1月に立ち上げた
「ラジオフォーラム」www.rafjp.orgなどがその筆頭だろう。
もはやメディアに頼りつつ文句を言うことに見切りをつけて、
自分たちの力をつけていく時期に来ていると思う。
もちろん、大マスコミの中で自分の伝えたいことを
一生懸命工夫して記事にしている報道・新聞・雑誌記者の存在は感じるし、
その人たちと連携することも大切だろう。
取りあえず、下はその鹿児島の残留孤児たちのニュースだ。
鹿児島朝日新聞の小池寛木さん、記事を書いてくれてありがとう。
これで、ほんのちょっとでも中国の人たちに
(こんな日本人もいるよ)と拡散することができる。
―――出所は 2014/01/24 朝日新聞/鹿児島県―――
終戦の混乱で中国東北部(旧満州)に残された日本人孤児を育てた
中国人養父母たちへの感謝の石碑が鹿児島市で23日、除幕された。
日中間で国同士の関係はこじれたまま。
建立に携わった孤児や日中交流関係者は、
この碑が友好を再び取り持つことを願っている。
感謝の碑は鹿児島市の天保山公園にできた。
高さ約2・5メートルで、「中国人養父母感謝之碑」と記された。
除幕式は市内に住む残留孤児、自治体など関係者約70人を迎えて開かれた。
発起人で鹿児島市に住む残留孤児、鬼塚建一郎さん(73)は
「(感謝の碑は)日中両国の永久の絆になる」とあいさつし、
感謝の気持ちを漢詩にして読み上げた。
中国駐福岡総領事館の李天然総領事は
「心より感謝を申し上げる。この厳かな雰囲気を目の当たりにして感無量の気持ちです」
と述べた。
鬼塚さんは中国・黒竜江省出身。
旧ソ連軍侵攻による混乱のなか、実父と生き別れ、実母とも死別した。
凍傷や皮膚病で生死の境にあった5歳のころ、
吉林省の農家、トウ兆学さん(当時45)夫妻が引き取り、育ててくれた。
約40年間、北朝鮮国境の長白山(白頭山)のふもとでともに農業を営んで暮らした。1
986年に帰国し、市内の量販店で定年まで働いた。
中国では現地の子どもから「日本鬼子」といじめに遭うこともあったが、
実子と分け隔てなく育ててくれた養父母に救われた。
「残された私たちは、もし養父母たちが引き取ってくれなければみんな死んでいた」
と鬼塚さん。
「異国の孤児に救いの手をさし伸べてくれた恩を忘れてはいけない」と、
感謝を示す碑の建立を思い立った。
旧知の県日中友好協会長で高島屋開発相談役の海江田順三郎さん(85)に相談し、
互いの私財を投じての建立が決まった。
東京に建てることも考えたが、快く市有地提供に応じた鹿児島市での建立を選んだ。
厚生労働省によると2013年12月までに永住帰国した残留孤児は2553人。
県内には13年10月現在、25人おり、平均年齢は75歳と高齢化が進む。
この日、式典には約10人が家族と訪れた。
遼寧省で育った残留孤児、高山文夫さん(71)=鹿児島市=は
「またここに来て、命を救ってくれた養父母のことを思い出したい」と話した。
尖閣諸島問題や首相の靖国神社参拝を巡り、きしみ続ける日中関係。
海江田さんは建立を
「国とか政府ではなく中国人と日本人、人間同士の付き合いを大切に考えるきっかけにしたい」
と話し、こう期待する。
「これを皮切りに、残留孤児がいる全国各地に『感謝の碑』が広がれば、
日中関係も前進するんです」(小池寛木)