南昌市内の日本語コーナー設立者である博堅先生が、昨年、
「海行かば 水浸(みず)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね)
大君の辺(へ)にこそ 死なめ 顧みはせじ」
と、朗々と歌われた時、心中複雑だった。
(なぜこの歌を中国人である博堅先生が知っているのか、
知っているとしても、日中戦争当時に盛んに歌われた軍歌を口にして平気なのか)
というのが、まず第一に浮かんだ疑問だった。
先生は、1933年に福島で生まれ、11歳まで福島市で育った。
この歌は福島市の人々が、戦死した兵士のお骨を入れた白い箱を持ち、
町の中を行列して歩いていたときに聞いて自然に覚えた歌だという。
まだ歌の意味が分かるには幼すぎたが、
音感鋭い先生は「菜の花畑に~」や「アムール川を北に見て~」同様、
全身で吸収したのだろう。
歌詞を読めば、天皇への忠誠を謳ったものである。
元々、万葉の歌人、大伴家持が一族を代表して
(「陸奥国より金(くがね)を出せる詔書を賀(ほ)く歌」という長歌+反歌を
天皇に献上したものの一部だという。
当時は藤原氏擡頭の時代で、大伴氏の勢力は既に衰えていた。
この歌で大伴の家系を強調した家持は時代錯誤の感を与える、と加藤周一は言い、
また更に、この奈良時代の時代錯誤の歌を、
戦時下の宣伝の道具にした当時の権力は、二重の時代錯誤であると、突き放している。
この厳しい批評は、加藤周一(1919年東京生まれ)が太平洋戦争(1941~45)当時、
22歳~26歳だったことで納得できる。
戦争に突入してから敗戦までの時期を、
大学生として、のちに、医局の職員として過ごしながら、
一貫して、あの愚かな戦争に嫌悪感を持っていた彼は、
この「海行かば」にも、戦争ムードを盛り上げる道具以上の感想が無かったのだろう。
あの戦争が嫌で嫌でたまらなかった若者の気持ちとして、よく理解できる。
しかし、私が初めてこの歌を聞いたのは、1970年代前半、
自分でノンセクト・ラジカルを標榜していた若者からだ。
既に大学闘争は下火になり、多くの若者たちは大学に戻ったり、中退したり、
「新左翼」党派に所属したり、または行方不明になったり、死んだりした。
ムードはとことん沈鬱だった。
闘いに敗れたといっても、いったい、あれは何と闘っていたのか。
そんな時に、「海行かば」を歌う若者は、
「これ、太平洋戦争のときの軍歌やけど、なんか反戦歌に聞こえるわ」
と言った。
「海行かば 水浸(みず)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね)」
このフレーズを繰り返し歌っていた。
おそらく彼は「大君の云々」は知らなかったのではないか。
この2行だけ取り上げると、確かに、荒涼たる風景と累々と横たわる屍が思い浮かぶが、
それ以上でも以下でもない。
さらなる想像と思い入れは一人ひとりの作業に帰す。
思えば、この2行だけの詩は、まるで映画「永遠のゼロ」のようだ。
どっちにでも転ぶ。
屍を踏みしだいて、さらなる殺し合いに進むのか、
命を失う慟哭を自分の世代で終わらせるのか。
3行目は一人ひとりが選択するのだ。