「学問のすゝめ」は爽快な語りの文章である。
今の日本の全家庭に一冊は備えて、
夕食後に家族みんなで朗読会を開いたらどうだろう。
「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
ヘイトスピーチで街に繰り出す多くの人が、
「嫌韓漫画を見て、これだ!と思った」などと言う。
これを愚民と言わずしてなんとしよう。
日本の歴史を世界史の観点に立ち、しっかりと学ばないといけない。
また、こんなのも読むとスカッとする。
かりそめにも政府に対して不平をいだくことあらば、
これを包みかくして暗に上(かみ)を怨(うら)むることなく、その路を求め、
その筋により静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。
天理人情にさえ叶うことならば、一命をも抛(なげう)ちて争うべきなり。
これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。
たとえ政府であろうとも、文句があれば陰で言わず、
筋道を立てて整然と訴え、遠慮なく議論するべきである。
天の理、人の道に適うことなら、
自分の命をなげうつ覚悟で争うべきである。
これが一人の国民に与えられた権利であり義務である。
たとえ国を相手にしても一歩も引かない自主独立の気構えを持て!と、
諭吉さんは平成のよろけたアタイたち日本人に言うのである。
イヤハヤ、気合入れられますね~。
これなんか、とどめですよ。
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、
人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。
常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、
恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。
いわゆる「習い、性となる」とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり。
ここまで読んできて、ふと、
福沢諭吉は「への字口」グループに入ることに気が付いた。
関係ないけど、下の坂本竜馬も「への字口」だ。
ちょっと知名度は劣るが(て言うか知名度ゼロ)、わが父も「への字口」だった。
その遺伝子を受け継いだのが、何を隠そうこのワタシである。
愛想も何もあったもんじゃない。
しかし、この二人を見ると、時代は「への字口」で切り開かれると言えないだろうか。
竜馬の生きた江戸末期や、諭吉が活躍した明治初期も、
西洋列強に食い潰されそうなとんでもない時代だったが、
日本という国が今、崩壊の危機に瀕しているのは何処から見ても事実である。
そういうわけで、みんな、明日から口を「への字」にして将来を見据え、
ひたすら学問に励もうじゃあ、ありませんか。