さきの大きな戦争は実際の話、どうだったのか。
自分が戦争を遂行した立場に近い政治家は、
「あれは正義の戦争だった」
「アジア解放のために必要だった」
と、必ず肯定します。
私が知りたいのは政治家の手前勝手な自己肯定論ではなく、
政治家の決断に自らの運命を委ねるしかなかった
「庶民」にとっては本当のところ、どうだったかです。
私も庶民以外の何者でもないからです。
拙ブログを書く中で知り合った「こきおばさん」は
ご自身のブログで、
幼少の頃、中国東北部で実際に体験されたことを書かれています。
内容を読む以前に私は、
現実に戦争を体験された80歳の方が
ご自身でブログを立ち上げていらっしゃることに
驚きを覚えました。
なぜなら、
50代~60代の私の友人の何人もがインターネットを忌避し、
私の精魂込めた(笑)ブログ文も読んでくれたためしがないからです。
自らネットで発信するこの人生の先輩の文からは
人生を切り開き、踏ん張ってきた強いオーラを感じるだけでなく、
自分の戦争体験から学んだことを
次の世代に何とかして伝達したい思いをひしひしと感じます。
読んだあと、少し後輩の私にはこれを受け止め、
また次にパスしていく務めがあると考えました。
戦争体験者の一人ひとりの脳裏には、
忘れ得ない戦争の一断面が刻まれています。
多くの体験者からお話を伺うことで、
戦争の全体像が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
私の前置きはいつも長いですね(笑)。
「こきおばさん」のお話をここに転載させていただきます。
(正確には「敗戦直後の体験」です)
ーーー「私は忘れない」ーーー
敗戦まで
昭和20年8月16日未明、激しく玄関を叩く音に祖父や母が起こされ、「日本が戦争に負けた」ことを知らされました。当時私は9歳、満州・吉林から列車で1時間足らずの場所、天崗(てんこう)という場所に住んでいました。
父は商売にかけては天才的な才能の持ち主で、新京に本店を置き、吉林・奉天・天津・大連・ハルピン・牡丹江などに店を出し、親族を呼び寄せそれぞれの店の責任者にしておきました。財を成したので、生涯、趣味の釣りと猟を自分の土地で出来るようにと、3,000町歩の土地を買い上げ、一家で天崗に移り住んでいました。電気もないランプ生活でしたが、鶏や牛・馬・豚を飼い、犬・ガチョウなどとも遊び友達でした。父は家の前と後ろを流れる川で魚釣りをしたり、雉や鴨を毎日のように腰にぶら下げて帰って来ました。私は大自然の中で妹たちと伸び伸びと暮らしていました。
吉林へ
敗戦を教えてくれたのは、近隣にあった満鉄の牧場の場長さんでした。15日正午、吉林で玉音放送を聞き急いで帰ってきたのでした。「ここに居ては危ないから、すぐに避難するように」大人たちは荷物をまとめたり写真を燃したりしていました。父はその年の初夏、召集されて居ませんでしたが、祖父と母・叔父・叔母・親族や中国人の使用人たちに連れられ、駅に向いました。駅には
何かを感づいた現地の人たちが集まっていましたが、別に危害を加えるでもなく遠巻きに見ていました。列車で吉林へ着き、叔母といとこたちが居た吉林の家での生活が始まりました。 そんなある日の夜明け、突然父が帰って来ました。
命がけの脱走
父は吉林の部隊にいて終戦を迎え、武装解除後、捕虜になり収容所にいました。ある日、ソ連兵と捕虜とで野球の試合をしました。父も10代の頃野球をしたことがあり、選手として試合に臨みました。その試合で足を捻挫してしまったのでした。
翌日集合がかかり、「病人はここに来い」と言われた時、父は何かを感じ取り、いかにも重症であるように大袈裟に痛がって病人の中に入りました。吉林駅に着くと捕虜たちは列車に押し込まれました。どの車両も窓は開かないようになっていて、車両の中には、武装したソ連兵が乗っていましたが、病人の車両は窓も開くし、ソ連兵も居ませんでした。意を決した父は、列車が吉林駅を過ぎる頃、夜陰に紛れて動いている列車の窓から飛び降りたのです。それに気づいたソ連兵がデッキから銃を発射しました。が、弾は当たらず父は傍の溝の中に腹ばいになっていました。銃声を聞いて駅にいた兵士がすぐ傍まで来ました。「あの時ほど自分の心臓の音が大きく聞こえたことはなかった」生前父は、何度となく話していました。しかも犬を連れていたので、死を覚悟したそうです。暫くそこに居ましたが、安全を確認して吉林の店まで徒歩で逃げてきたのでした。脱走したとわかると銃殺されるからと、暫くの間父は地下室に隠れていました。吉林の店には倉庫兼用の地下室があったのです。父は昼はその地下室にいて、夜は家族の元に出てきていました。
捨てられた開拓団
3ヶ月ほどして父が表に出ても大丈夫だと判断して、皆と生活するようになった頃、吉林は厳しい冬になりました。みぞれが降る寒い日、半裸状態の人たちがコモをかぶったりして、近くの映画館に避難して来ました。東北から国策で送られた開拓団の人たちで、その代表だと言うおじいさんが家を訪ねてきました。「水が出ないので、水を汲ませてください。近所でお願いしましたが、皆、断られました」父は「水は命の源、どうぞ使って」と外の水道を使うように言いました。喜んだ開拓団の人たちは、お礼にと味噌や麹・どぶろくの作り方を教えてくれました。父はそれで大儲けをしたのですが、その話は置いておくとして、代表のおじいさんは、こんな話をしました。
「私はこの手で、嫁と孫を殺してきました。避難して山道を歩いている時、どうしても孫は遅れがちになりました。私は嫁に『孫をここへ捨てていけ、中国人は子どもを大事にするから、きっと育ててくれるから』と何回も言ったけれど、嫁は『どうしてもそれは出来ない、子どもを捨てるぐらいなら私とこの子を殺してください』と繰り返すばかり。私は皆を連れて行く責任があるから、そうするしかなくて、嫁と孫の首を絞めて殺してきました」話す人も聞く人も涙・涙でした。
この話は子どもだった私の耳にも今も焼き付いています。あのおじいさんは生涯自分を責め続けて過ごしたことだと思います。
叔父の死
ある日、天崗の警察署長から、「ここは落ち着いているから、一度来て荷物をまとめたらどうか」と連絡があり、父は当時6歳の妹と、19歳の叔父と同じ歳で家で働いていた親族、それに中国人の使用人を連れて行きました。現地の人たちは気持ちよく迎えてくれたそうです。が、夜中突然中国人の集団に襲われました。警察署長さんが解散させてくれたので、父は「子どもを連れているから一足先に帰るが、明るくなったら皆で帰って来い」と言い残して帰って来ました。けれど、叔父と親族の二人はその後又襲ってきた人たちに殺されてしまったのです。それは山に逃げた敗戦を信じない日本兵が、その前の日、食料を調達に隣に下りてきて、現地の人たちを殺し食料を奪って逃げたのです。その恨みから丁度そこにいた日本人を殺せと、叔父と親族の二人が犠牲になったのでした。叔父たちは日本兵に殺されたのだと私は今も思っています。
引き揚げ
やがて父の親族は皆、新京の店に集まることが出来、一緒に生活しました。敗戦から1年過ぎて21年9月、引き揚げることになり、コロ島から船に乗り込みました。船といっても貨物船で、船底に荷物のように押し込まれました。船の中ではコウリャンのおかゆのようなものを、1食にお玉1杯ぐらいしか貰えませんでしたから、毎日のように死人が出ました。が葬儀らしい事も出来ずコモに包んでは海に投げ込んでいました。そんな光景は毎日のように見られました。
待望の日本を目前にして、検疫が始まりました。何列にも並んで毎日のように、首筋からDDTを吹き込まれたり、両腕を出して左右から注射をされました。勿論針の交換などせず、次々と刺していきましたから、あれで肝炎になった人もいたということです。
今考えても一番屈辱的だったことは、検便でした。甲板に4~5人の検疫官が椅子に座り、私たちはその前に列になって次々とお尻を出し四つんばいにさせられ、ガラスの棒のようなものを肛門に刺されました。子どもの私でさえ嫌でしたから、女性はさぞかし辛い思いをしたことでしょう。それに今も許せないことは、その様子を検疫官の後ろに廻って、卑猥な笑みを浮かべながら見ていた男たち!
戦後の生活
吉田の家に帰って来て、私は4年生に編入しました。が、戦後の生活も大変でした。教科書は上級生から譲り受けましたが、文具はなくノートは白いところがなくなるほど書き込みましたし、鉛筆も紙も粗悪品でしたから、書くと破れました。消しゴムがなくて指に唾をつけて擦ったりしました。雪が降っても長靴はなくて下駄履きでした。靴を買うのにもゴムの靴底を持っていかなければ売って貰えませんでした。給食なんてありませんでしたから、昼食はお弁当でしたが、殆どの子はお弁当を持ってはいけませんでした。オジヤとかオカユのようなものを食べていましたから、弁当箱に詰められないのです。だから皆、家に食べに帰りました。でも中には家に帰っても食べるものがないため、空き腹を抱えて日向ぼっこをして昼休み時間を過ごす子も居ました。小学校では江ノ島・鎌倉、中学校は日光へ修学旅行に行きましたが、どちらも布の袋にお米を入れて持って行きました。どこに泊まるにしてもお米を持っていかないと泊めてもらえなかったのです。
お米の代わりによくサツマイモが配給になりました。切干にしたり、ご飯に炊き込んだり毎日芋の食事でした。あの時一生分の芋を食べたからでしょうか、私は今もサツマイモはあまり食べたいとは思いません。
戦争は犯罪
人殺しはいつの世でも犯罪の筈です。だのに戦争では人殺しをすればするほど勲章がもらえます。いくら考えても、どう考えてもこれはおかしなことです。人間が人間ではなくなる戦争。動物だって無駄な殺し合いはしないでしょう。武器まで使い そして今はボタン一つで命を奪ってしまう戦争は、人間だったらしてはいけないことなのです。
*写真は1,994年叔父の50回忌にあたって、どうしても現地に行き慰霊したいとの思いを強くし、旧満州のゆかりの地を訪れた時に写してきたものです。
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(註)地名:新京=旧満州帝国の首都。現在は吉林省長春市。奉天=旧満州の地名。現、遼寧省瀋陽市。天崗=吉林市郊外の地。現、天崗鎮。
「こきおばさん」のブログサイト:
いけだねっとNO2 http://blog.livedoor.jp/leltugo123-yuki1234/
この文章では触れられていないこと(お父様が中国に渡った経緯など)が、下の文章に書かれています。合わせてお読みくだされば幸いです。
http://blog.livedoor.jp/leltugo123-yuki1234/archives/51841005.html#comments
http://blog.livedoor.jp/leltugo123-yuki1234/archives/51781203.html#comments
http://blog.livedoor.jp/leltugo123-yuki1234/archives/51227980.html#comments