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毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「『復員兵』でも『引揚者』でもない中国からの『帰国者』たち」No.2621

2018-08-21 12:31:01 | 反戦平和

前号のブログ(No.2620) で、

引揚者である「こきおばさん」の体験記を掲載させていただきました。

引き揚げてくるとき10歳だったこきおばさんは、

国家の保護もなく、守ってくれるはずの軍隊には見捨てられ、

飢餓と命の恐怖に襲われつつも何とか帰国しましたが、

何と日本に着いてからも屈辱的扱いに耐えなければなりませんでした。

私の父母も1946年に引揚げてきた組で、

苦労して故郷北海道に帰ったというのに「引揚者が……」と陰口を叩かれたと、

こきおばさんと同様のことを言っていました。

自分のせいでなく酷い目に遭った者を虐めたり差別したりするのは

日本人の伝統なんでしょうか??

『広島に歳はないんよ』の佐伯敏子さんも被爆後地域の人に冷たくされ、

『火垂るの墓』の野坂昭如さんも親戚のおばさんに冷遇されました。

2011年3月の福島原発事故後、避難した子どもの学校でも

多くの虐め事件が発生しています。

この底意地の悪い根性、何とかなりませんかね。

 

さて、「引揚者」と「帰国者」は

同じように他国から日本に戻ってきた民間人を指す言葉ですが、

違いは帰国の時期です。

「(中国からの)引揚者」とは大雑把に言って、

1945年敗戦から1972年日中国交正常化までに日本に帰国した日本人

(多くは1958年8月までに帰国)、

 

「(中国からの)帰国者」とは、

1972年の周恩来、田中角栄が切り開いた

日中国交正常化以降に帰国した日本人を指します。

私は以前、大阪にある近畿中国帰国者支援交流センターで

帰国者の皆さんに日本語を教えていました。

そのときのクラスで、とても熱心に勉強していた学生の一人に

西井澄さん(82歳)がいます。

偶然にも引揚者のこきおばさんとほぼ同年齢で、

中国にいたときの住所も近所ですが、

敗戦後の人生の歩みは全く異なります。

しかし、お二人に共通するのは、

日本に帰ってからも困難な生活が続いたことと、

今もなお「戦争は絶対にダメだ!」

声を大にしておっしゃることです。

 ↓2015年3月満79歳の高校卒業(大阪府立大手前高校)を「帰国者の友」で祝った際のもの。

「私の歩んできた道」西井 澄 (註1)

 私は昭和十一(1936)年3月25日、高知県中村市川登で生まれました。家の前は有名な四万十川が流れています。川の両岸に高い山がそびえ、きれいな木がいっぱいで景色が非常に美しいところです。こんないい思い出の故郷です。6歳まで私はよく川の周りで遊んでいました。隣の平さんとカヨさんという人といつも一緒に水遊びをしていたのを覚えています。

 それが昭和十七(1942)年5月7日に、家族4人(父、母、私、妹)で、高知開拓団として旧満州吉林省舒蘭県小城子鎮四合屯八道林村へ行きました。母は自分が一人娘だったので、そんなに遠くに行くのは賛成でなかったのですが、政府が土地も、馬も、農具も、全部用意してくれると言うので、父が乗り気になり参加を決めたそうです。八道林村は辺鄙な山の中でした。30戸ぐらいの家がありましたが、日本人はただ7戸でした。

 私は6歳でしたから学校に入る歳でした。でも、学校には入れませんでした。理由は周辺地域で学校に行く子は私一人だけだったのですが、家から学校まで10kmもあり、道の両側に高い木が鬱蒼と茂っていて狐や狸が頻繁に出てくるし、木と木の隙間には死んだ人が入っている棺がごろごろ置いてある(当時のその地域の習慣でした)ので、怖くて行けませんでした。その後、北海道から3家族が入植してきました。その中に子どもが3人いたので、翌年その子たちと一緒に一年遅れて入学しました、その学校生活の思い出は、九州出身の近藤先生という優しい男の先生が複式学級の担任だったこと、「猿かに合戦」というおもしろい劇をしたことです。 

 父と母は農業をして一家4人の生活を支えていました。労働は過酷で貧しい生活でした。私は毎日学校に行き、家に帰ったら妹と遊ぶ暮らしでしたが、昭和二十(1945)年6月、下の妹が生まれ5人家族になりました。苦しい生活が続く中で生きていましたが、楽しかった。父母と三姉妹の5人がいるので、お喋りをしたり……。この時は、親の笑い顔が見えました。

 その月の6月30日、父に召集令状が来て翌朝すぐに兵隊に行きました。このとき、母は出産7日目でした。仕方がないから9歳の私が父を舒蘭県の駅までお送りしました。私は涙を流しながら父と別れました。父は行ったなり、再び戻ることはありませんでしたが、一度だけ「戦争が終わったら、荷物は何も持たず逃げなさい。」と書かれた便りが届きました。3ヶ月も経たないうちに終戦になりました。

 8月15日、母は3人の子どもを連れて家を出、その日から避難生活が始まりました。吉林から奉天(今の瀋陽)まで6ヶ月かかりました。最初は四合屯小学校に集まりましたが、このとき、中国人に襲われ、学校のガラスは割れ、私と妹は団体の人たちについて山の奥の方へ逃げました。母は赤ちゃんのオムツをお願いしようとして大きな木で殴られ、生まれて2ヶ月の妹を抱いたまま校庭で倒れました。後で誰かに助けられたそうです。この日、私と妹は山の奥で一晩過ごしました。明くる日の昼ごろ学校に戻って、母に会えました。母の頭は白いガーゼで包まれていました。後で食事が配られました。一人に1つのおにぎりでした。

 夜になったらロシア軍が入ってきて、きれいな女の人を捕まえて外へ出ようとしたので、部屋の中は子どもの泣き声や、「助けて!」と叫ぶ女性の声で大騒動になりました。こういう怖いことを防ぐために若い女の人は子どもを借りて抱いたり、顔に炭を塗ったり、色々な方法を考えました。9歳だった私は(どうしてこんな世の中になったんだろう。戦争があるからこうなったんだ。戦争は怖い。戦争は人を殺す。戦争は家族をバラバラにしてしまった)と、心底思いました。 

 小城子の駅から貨物列車に乗ってハアビに到着、ここでも学校に避難しました。ひとつの教室に60人ぐらいがひしめき合って住むことになりました。玄関はロシア軍が守衛。10月頃でした。気候がだんだん寒くなって雪も降り、気温はマイナス10度以下。ここには1ヶ月ぐらい居りました。このとき、食べ物・飲み物は不十分でした。だから毎日人が亡くなり、みんな直面する困難な生活の中で生きるために、子どもを中国人に預けたり、中国人と結婚したり、それぞれでした。

 私たちはここからまた新京(長春)に行き、団体宿舎のようなところに住みましたが、食べ物がなくなり、生後4ヶ月ちょっとの妹が亡くなりました。母に抱っこされて息を引き取りました。悲しくて泣きました。生きていたら数えで65歳です。(註)

 長春から瀋陽へ、11月の中頃、満蒙小学校に着きました。50人ぐらいが一緒です。また、毎日人が死んでいきます。幼い頃から人の死ぬ姿ばかり目の当たりにしてきました。母もここで伝染病にかかって動けなくなり、仕方がないから上の妹を中国人の王さんに預けました。母と私も韓さんという人に助けられました。大きい街から馬車に乗って2時間かかる農村へ連れて行かれました。家に着いたら、22人の大家族でした。 

 私と母は韓さんから食事を得られ、お腹いっぱいになり、母の病状は良くなりました。母は韓さんの妻として、私は養女として、大家族の中での生活が始まりました。韓さんは5人兄弟の2番目です。何の権力もありません。ただただ、働いて弟達の家族を養うだけです。母は毎日、家事(例えば、水汲み、ご飯炊き、畑の草取り、田植え、稲刈り……)をしました。私は子守り、家事の手伝いなどをやらされました。食事は2食です。10時頃に朝ご飯を食べます。食事の時間になったら、机の上にご飯1椀、漬け物1皿が載ります。おかずはあまりありません。月に一回、もち米で作ったお餅を夕飯に食べますが、私と母にはくれませんでした。

 こんな悲しい生活でも、我慢し、辛抱することが生きていくためには仕方がないことでした。私は一度、重い病気に罹って歩けなくなりました。足が曲がってしまいましたが、それでも病院に行かせてくれません。自分で忍耐し、回復の時間を待つしかありませんでした。学校に行くなど、論外でした。歳は10歳だったけれど、労働者として働かされるばかりでした。

 1949年10月1日、中華人民共和国が正式に成立し、共産主義になり、私もちょっとは解放されました。と言うのは、大家族から出て、兄弟5人がそれぞれ自分で所帯を持ち、家族は3人になったので、大家族のときより、ちょっと自由になり、この時に小学校3学年に入らせてもらいました。歳は13歳ですが2年までしか行っていませんから、3年生から勉強を習うようになったんです。でも3人の土地があるから、畑仕事をしなければならず、学校に通えるのは雨の日と雪の日だけでした。小学校は5年半で終わりましたが、実際の知識は3年生ぐらいでした。

 この時期は社会的に教師が足りないので、急に師範学校へ推薦してもらいました。4年間学校に住み込みながら勉強しました。1956年7月から小学校の先生になり、重い任務を引き受けました。6年の担任です。最初は怖かったです。でも、国のため、子どものために一生懸命でした。それから25年間小学校に勤めました。仕事仲間の同僚と結婚して4人子どもをもうけ、家事や子育てと、いろいろなことをしてきました。

 私も母も生きるか死ぬかの境目に中国人に助けられました。だから今の私があるんです。私には育ててくれた第二の祖国、中国があります。中国が私を一人前に育ててくれました。感謝しております。一生忘れられない祖国です。「それなら、どうしてまた日本に帰ってきたのですか?」と聞かれるかも知れません。

 中国では毎年、各種の政治運動があります。「三反運動」、「五反運動」、「反右闘争」、そして最後に「文化大革命」が起きました。私はこの運動によってたいへん大きな影響を受けました。私は日本人だからみんなに、「お前は『小日本鬼子』だ」、「お前は日本から派遣されたスパイの一員だ」と言われ、攻撃の的にされました。子どもも学校で虐められました。自分だけなら我慢できますが、子どもが泣いている様子を見るのは辛くてたまりませんでした。本当に我慢できなくなり、(日本に帰りたい)と思うようになったのです。

 それで、1981年8月22日、45歳の時に、日本の国から一切援助を受けないで自費帰国しました。祖国に帰れたときは(これからは安心して暮らせることだろう)と思い、嬉しかったです。しかし、その喜びは帰国後、たちまち飛んでしまいました。喜びは苦しみになりました。何かをやろうと思ったとき、全く日本語が喋れないし、日本の習慣・文化がわからないのです。全部新しい環境の下で生きて行くことになりました。まず、仕事を探すことから始め、友達の紹介で病院の付き添いをすることになりました。8月22日に日本に帰ってきてその月のうちにもう、仕事を始めたのですが、この時はとっても嬉しかった。仕事があれば生活が出来ます。でも、この仕事は毎日24時間体制で働く仕事で、体力的にも精神的にも疲れる仕事でした。言葉が分からない者にはなおさらです。しかし、私は68歳までこの仕事を続けました。

 帰国当時の苦しさは、中国にいたときより酷かったですが、私は次々に襲ってくる困難の一つひとつを乗り越えて、最低限の生活を維持してきました。子どもも成長してみんな仕事に就き、ようやく、これから幸せに暮らせるときがきました。

 しかし、その嬉しい気持ちが一瞬にして消える出来事がありました。病魔に襲われたのです。大腸癌でした。阪大病院に入院しました。2ヶ月の入院生活は辛かった。長い、長い検査のとき、正直言って生きているのが嫌になりました。そんな悩み・苦しみのとき、私は過去を回想して(今まで何でもやってきたんだ。闘病生活に負けてたまるか!これからも頑張っていくしかない)と自分を励ましました。早く元気な身体を取り戻すため、外に出て歩いたり、新鮮な空気を吸ったり、色々なことを試みました。お医者さん、看護師さんのおかげで何とか退院し、家に帰っても病院の指示に従って適当な運動を続けたので、早く元気になりました。これからも何かをして、楽しく自分の人生を歩まなければならないと思っていた矢先、友達の紹介で夜間中学に入らせてもらい、愉快に学生生活を送っています。若返りさせてもらいました。

 今は、日本に帰ってきてよかったと思います

(註1)この作文は2012年度解放文学賞佳作に入賞したものです。

(註2)この作文は2009年に近畿中国帰国者支援センターで日本語学習をする中で、自主活動として書いたものです。妹さんは、生きていれば2009年当時満64歳、2018年8月現在では73歳です。

ーーー西井澄さん関連ブログ

「私は中国残留の子どもだった」  2012年7月22日(日) No.399

https://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/1877300cc6123bcd200c01559dd4a03f

「中国帰国者一世の快挙:79歳の高校卒業」2015年4月1日(水)No.1122

https://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/45080f00fd5e88d1ad087909fa92954f

「西井澄さん、中国残留の体験を語る」2015年4月23日(木)No.1342

https://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/dcdc17be43f057b7fa8da5b64a9f597c

コメント (2)
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