日本僑報社(段躍中主任)の「中国人の日本語作文コンクール」
第7回から毎年応募してきた(日本に帰っていた第11回を除く)
作文コンクールに最後の応募をいたしました。
今日、5月31日が締め切り日です。
一作ずつ、最後のチェックをして
全部で22編の作文をコンクール事務局に送付し、
2月末からの終わらない仕事から解放されて深く息をついています。
学生の作文内容については
締切日を過ぎる明日以降、おいおい書くことにして
今日は主催者の段躍中さんのご紹介をいたしましょう。
Wikipediaで何年前か検索したら、ネトウヨによる
段躍中=「反日」「中国共産党の手先」などと
全く当てはまらない「説明」があり、
(Wikipediaはこういうことも載せるんだな)と
その信用度が地に落ちました。
しかし、さっきもう一度念のためWikipediaを見たところ、
その文言はすっかり消えて
下のような経歴事実のみが記載されてありました。
(自浄作用もあるようです)
ネトウヨは、経歴にある
「中国青年報の記者」と「日本に留学」の2つから
上記の言葉を思いついたのでしょう。
確かに中国青年報は中国共産主義青年団(共青団)の機関紙で、
当時の段躍中さんは中国共産党の若き有望株だったそうです。
そんな彼が、なぜ1991年に日本に留学し、
以後ずっと独力で日本に足場を築いてきたのかは、
1989年6月4日の天安門事件を抜きに語れません。
当時、段躍中さんはすでに中国青年報の記者でした。
天安門広場で見た事実を新聞社に帰って記事にしようとした
段さんを含む記者たちは、
上層部から禁止命令が下され、机を叩いて泣いたそうです。
その後、彼は「妻が恋しいので」という理由で
先に留学していた妻のいる日本に渡り、
現在まで自力で日中友好の地歩を築いてきました。
「日本の新聞の『声』欄に市民の政府批判が載っているのを見て、
(言論の自由とはこういうことか…)と感銘を受けた」
と段さんが書いていたのを読み、
日本でも「声」欄に政府批判が載せられなかった時代が
かつてあったことを想いました。
独裁政治は軍事独裁だろうが共産党独裁だろうがダメですね。
段躍中さんは、日本政府(在中国日本大使館)の後援を取り付け、
コンクールの最優秀者を日本に招いて
日本政府の文科大臣を訪れさせて一緒に写真を撮るなど、
政権の懐に飛び込む大胆なやり方で
この作文コンクールの権威付けに成功し、
今では中国全土の日本語を学ぶ学校から認定される
確固たる地位を確立しています。
中国人らしい方法だと思います。
ー段躍中さんの経歴 Wikipediaより
1958年中国湖南省に生まれ、中国青年報の記者・編集者として活躍。
1991年日本に留学。
1996年総合出版の日本僑報社を設立。
1998年には在日中国人社会の情報源と成すべく編纂した在日中国人大全を出版。
2000年3月に新潟大学大学院で博士号取得。
2002年「永遠の隣人--人民日報に見る日本人」を出版。
2005年から日中作文コンクール(日本人の中国語作文コンクール、中国人の日本語作文コンクール)を主催。
2007年8月、星期日漢語角(日曜中国語サークル)を創立。
2008年度日中学院倉石賞・小島康誉国際貢献賞受賞。
2009年度外務大臣表彰受賞。
2014年12月、「中国人の日本語作文コンクール」は第10回を迎え、北京の日本大使館にて表彰式と日本語スピーチ大会を催す。
2015年5月14日、NHKラジオ深夜便に出演、テーマは「日中相互理解は日本語作文から」。
2016年5月20日、テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」に出演
2016年9月7日、NHKクローズアップ現代に出演
2016年9月26日号、サンデー毎日「倉重篤郎・サンデー時評」に大きく登場
2016年11月26日、朝日新聞・beに登場