何でもすぐに慣れる人と、そうでない人に分けると、
私はそうでない人間に属すると思って生きてきましたが、
ここ、菏澤ではどういうわけかハイスピードで何でもかんでも慣れて(麻痺して)きています。
厳重汚染(405指数)の朝、味・臭いが起きたすぐから分かるほどでしたが、
昨年の同時期に感じた緊迫感はとうに失せ、
喉の薬や飴やら日本からわんさか持ってきたのを
飲んだり舐めたりして淡々と過ごしました。
さすがにマスクは二重にして着用し、教室に出かけましたけど。
いろいろ買って送ってくれる余立君さんが以前大量に送ってくれた上等マスクは、
30分装着すると、ほっぺにくっきりと筋が何本も付いて、
顔が京劇のお面みたいになってしまうので、授業にはしていけません。
夜寝るときは、安もんのマスクを装着して寝ます。
12月に入り、期末試験の問題を作り始めました。
学期の終わりごろになると、
いつまでこんなことやっているのか、とかも含めて、
中国で日本語を教えるということについて自分に聞いたりし始めます。
以前、中国に来る前に心にあった(経済侵略に加担するのでは?)
という気持ちは今はありません。
経済活動は「経済交流」にもなれば「経済侵略」にもなるものだということは
中国駐在の会社員など日本人に会って実感したことです。
言葉はその交流のための道具にもなり、異民族理解の力にもなるものです。
中国の学生たちが日本語を学ぶことは、
いろんな意味ですばらしいことだと思うようになりました。
しかし、学生たちに日本語を教えながら実は、私自身も変化してきたのです。
まず、日本語についてとても気を付けるようになりました。
丁寧体一つあれば敬語なんか要らないんじゃないかと思っていた過去も遠くなり、
日本人理解にとって、
敬語を含む豊かな待遇表現は大変面白い研究対象だと思う今日この頃です。
ずっと以前、初めて映画「伊豆の踊子」を観たとき、
踊子の兄(大阪史郎)が、若輩の学生(高橋秀樹)に
最後まで丁寧な言葉を使い続けていたのが気になって、
(それが日本の歴史だったんだ)と思いつつも何ともやるせない思いがしました。
しかし、それらの場面を何年にも渡り、何度も反芻するうちに、
当時の身分制度の枠からはみ出す日本の何か
(情緒とか言うと手垢にまみれ過ぎで言いたくない)が
ジュワーッと心に滲んでくるのを自覚します。
川端康成について、(私には無関係な人)という感じはそれほど変化してませんが、
川端康成の日本語表現については、惹かれ始めています。
「その国を研究するなら、言語を学び、言語と一体化しなければならない」
とまで言う人もいます。
私は日本を研究したいなどと思ってはいなかったのですが、
日本語を教える境遇になって、あれこれ隅っこをいじくりまわしているうちに、
日本や日本人(切り取られた「今」では決してありません)が
どうも、面白く感じてきた今日この頃です。
しかし、中国語はさっぱりあきません……。( ;∀;)
やる気がないのです。
毎日、見飽きないキャンパスの落ち葉。
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