3年の授業で「環境問題」をテーマにレポートを書かせた。学生達の環境問題に対する現状認識、課題意識などを知る上で興味深い点がいくつもあった。
1 一般的に中国社会には、解決しなければならない環境問題があるという認識では全員一致(ゴミ問題、空気・水質・土壌汚染、騒音問題など)。情報は主にインターネットから収集。(寮には管理人室以外、テレビはない。図書館の新聞で調べた学生もいる。)
2 大学における環境問題としては、ゴミ問題、騒音問題、安全管理・施設設備、風紀の問題などの課題があがった。
3 課題を解決(改善)するにはどうしたら良いかという方向性は、非常に弱い。国家が手を付けていないのに、自分で一体何ができるのか、口では「みんな一人一人が気をつけよう」と言うが、みんながそんなに環境を気にして頑張るとは信じていないといった様子がありあり。
【ゴミ問題】
最も多くの学生が取り上げたのは、大学のゴミ問題だ。
と言っても、ゴミの分別回収とか再利用と言ったレベルではない。少なくともここ江西省南昌市はゴミの分別回収をしていない。再利用を呼びかけてもいない。
なので、学生たちが言及するのはひたすら、ゴミが散らかっていることへの批判だ。
キャンパス内のあちこちには黄色いゴミ入れが設置されている。キャンパス外の一般路上に比べれば食品の袋・箱など、散らかっているゴミは少ない。しかし、一般路上でのゴミがあまりに多すぎるので、相対的に少ないと思うだけではないかと私は感じる。
教室には固定式の長机と5人掛け椅子が何列もある。前クラスの授業時に誰かが机の中に食べた滓、空き袋などを置いていくことはよくある。後でその席に座った者は気分が悪い。
また、教室の小さいゴミ箱は満タンの時が多い。それでも廊下の大きいゴミ箱まで運ぶ者はほとんどいない。たいてい、満タンのゴミの上に更にそっと自分のゴミを捨てる。その多くはゴミ箱に入らず、周辺に散らかる。
新学期には、毎日食堂前でチラシが大量に配られる。その殆どはゴミ箱にすら到達せず、ただ足下に捨てられる。壮絶な散らかり方だ。ある時、食堂の職員らしい50~60代の女性が床や階段に幾重にも散らかったチラシを拾い集めていた。学生諸君は、全く無関心の様子で、チラシを踏んづけて階段の上り下りをしていた。私が一枚拾うと、その女性が驚いたように私を見た。一緒にいた学生はどう思ったか、表情を確認できなかった。
最近、2年と3年のクラスでその話をした。中国人の子どもたちは年上を敬う躾を受けて育っている。50代、60代の大人が自分たちが出したゴミを黙々と拾っているのをどう感じるのか、尋ねた。その時、学生達はひたすら恥じ入っているように見えた。日本の小学生は、そんなに全員そろって素直に反省の態度を示さない。そのあまりに期待通りの反応にこちらが驚いたほどだ。
そして約束した。少なくとも自分はゴミをゴミ箱に捨てること。そして、満タンのゴミ箱にさらにゴミを上乗せするのではなく、ほんのちょっと、何メートルかのボランティア活動をしよう、と。
こんなことで、何かが変わるか分からない。
そういえば、1970年代、私が小学校教師に成り立ての頃、「川や海の水を守るために、合成洗剤を使わず粉石けんを使おう。」と5年生の子どもたちに呼びかけたことがある。ある子どもは早速家に帰って親に話した。親は「うちだけ粉石けん使ったって、何にもならないに決まってるやん。無駄だ、と先生に言いなさい。」とその子どもに言った。
何だかその頃の日本社会と、現在の中国社会の状況が重なって見える。社会に発信する何かをこの子たち(といってももう20代の大人だけど)が、身につけてくれることをつい期待してしまう。こういうのを教師根性というのかなあ。
1 一般的に中国社会には、解決しなければならない環境問題があるという認識では全員一致(ゴミ問題、空気・水質・土壌汚染、騒音問題など)。情報は主にインターネットから収集。(寮には管理人室以外、テレビはない。図書館の新聞で調べた学生もいる。)
2 大学における環境問題としては、ゴミ問題、騒音問題、安全管理・施設設備、風紀の問題などの課題があがった。
3 課題を解決(改善)するにはどうしたら良いかという方向性は、非常に弱い。国家が手を付けていないのに、自分で一体何ができるのか、口では「みんな一人一人が気をつけよう」と言うが、みんながそんなに環境を気にして頑張るとは信じていないといった様子がありあり。
【ゴミ問題】
最も多くの学生が取り上げたのは、大学のゴミ問題だ。
と言っても、ゴミの分別回収とか再利用と言ったレベルではない。少なくともここ江西省南昌市はゴミの分別回収をしていない。再利用を呼びかけてもいない。
なので、学生たちが言及するのはひたすら、ゴミが散らかっていることへの批判だ。
キャンパス内のあちこちには黄色いゴミ入れが設置されている。キャンパス外の一般路上に比べれば食品の袋・箱など、散らかっているゴミは少ない。しかし、一般路上でのゴミがあまりに多すぎるので、相対的に少ないと思うだけではないかと私は感じる。
教室には固定式の長机と5人掛け椅子が何列もある。前クラスの授業時に誰かが机の中に食べた滓、空き袋などを置いていくことはよくある。後でその席に座った者は気分が悪い。
また、教室の小さいゴミ箱は満タンの時が多い。それでも廊下の大きいゴミ箱まで運ぶ者はほとんどいない。たいてい、満タンのゴミの上に更にそっと自分のゴミを捨てる。その多くはゴミ箱に入らず、周辺に散らかる。
新学期には、毎日食堂前でチラシが大量に配られる。その殆どはゴミ箱にすら到達せず、ただ足下に捨てられる。壮絶な散らかり方だ。ある時、食堂の職員らしい50~60代の女性が床や階段に幾重にも散らかったチラシを拾い集めていた。学生諸君は、全く無関心の様子で、チラシを踏んづけて階段の上り下りをしていた。私が一枚拾うと、その女性が驚いたように私を見た。一緒にいた学生はどう思ったか、表情を確認できなかった。
最近、2年と3年のクラスでその話をした。中国人の子どもたちは年上を敬う躾を受けて育っている。50代、60代の大人が自分たちが出したゴミを黙々と拾っているのをどう感じるのか、尋ねた。その時、学生達はひたすら恥じ入っているように見えた。日本の小学生は、そんなに全員そろって素直に反省の態度を示さない。そのあまりに期待通りの反応にこちらが驚いたほどだ。
そして約束した。少なくとも自分はゴミをゴミ箱に捨てること。そして、満タンのゴミ箱にさらにゴミを上乗せするのではなく、ほんのちょっと、何メートルかのボランティア活動をしよう、と。
こんなことで、何かが変わるか分からない。
そういえば、1970年代、私が小学校教師に成り立ての頃、「川や海の水を守るために、合成洗剤を使わず粉石けんを使おう。」と5年生の子どもたちに呼びかけたことがある。ある子どもは早速家に帰って親に話した。親は「うちだけ粉石けん使ったって、何にもならないに決まってるやん。無駄だ、と先生に言いなさい。」とその子どもに言った。
何だかその頃の日本社会と、現在の中国社会の状況が重なって見える。社会に発信する何かをこの子たち(といってももう20代の大人だけど)が、身につけてくれることをつい期待してしまう。こういうのを教師根性というのかなあ。