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「『英霊の尊い犠牲』の意味」 2013年8月30日(金) No.734

2013-08-30 22:09:34 | 歴史
この夏、最も印象に残った記事の一つに、
ある日本軍元兵士の告白を取材した8月15日朝日新聞デジタル(石橋英昭写真・記事)
「強盗、殺人…軍命でも私は実行犯」-罪語り、誓う不戦 兵の体験、次代に-
がある。


戦時中フィリピンで従軍し、
昨年92歳で亡くなった矢野正美さんは、
黙っていれば優しい好々爺として一生終われたものを、
戦争で自分が為した非道な行いを語った。
戦後、ずっと胸に仕舞い込んで誰にも話さなかった彼が、
意を決して話し始めた心境は、ただ想像するしかないが、
日本人というより、人間の先輩として私は、矢野さんを拝みたい。
「犠牲になった英霊」たちも、矢野さんのようにしたかったのではないか。
「自分たちは上官の命令に従っただけだと言っても、
自分たちのしたことは罪深い。
‘尊い犠牲’などと誤魔化されているが、酷いことを国によってさせられた
悲しい実行犯であり、その死によって真実を語る自由を奪われている存在なのだ」
という亡くなった兵士たちの絶望の声が聞こえる。
だからこそ、矢野さんは戦友の声を代表して、
どうしても言わなければならなかったのではないか。

(矢野さん、語ってくださって、本当にありがとうございます。
日本と日本人が犯した過ちを繰り返さないために、
矢野さんの遺志をどう受け継いだらいいか、今、私は考えています)


ここから掲載-----------

広い庭にやせこけた兵士が片ひざをついている。
台座に「不戦」の2文字。
この像を建てた主、矢野正美(まさみ)さん(愛媛県西条市)は
昨年2月、92歳で亡くなった。
戦場で犯した罪を語り、何度も「8月15日まで生きたい」と言い残した。
矢野さんが伝えたかったものとは何なのか。

 首都圏を中心に戦争体験者の証言記録に取り組んできた神(じん)直子さん(35)に、
矢野さんから突然連絡が来たのは、7年前の夏。
その朝、テレビで神さんの活動が紹介された。

 「ぜひ、愛媛に来てください」。
3カ月後、神さんの前で矢野さんは2日間、従軍したフィリピンであったことを語り続けた。

 ルソン島のある村で、ゲリラ潜伏を調べていた時。
教会から出て来た老女が怪しいと、上官が銃剣で突くよう命じた。
 「しょうがない。グスッと胸を突いたら血がばーっと出てね。
空(くう)をつかんで、その人は倒れました」。
別の村では、残っていた子連れの女性を襲った。
 「強盗、強姦(ごうかん)、殺人、放火。
軍命であっても、私は実行犯。罪の意識はある。
かといって(戦友の)慰霊には何回も行ったが、謝罪のすべを知りません」

 こんな恐ろしい告白もあった。
 敗走を続け、飢えに苦しんだ山中で、日本人の逃亡兵を仲間の兵が殺した。
その晩、仲間の飯ごうから、久しぶりに肉の臭いがした。
「奪い合うように食べました」。
次の日には自ら死体の所へ行き、足の肉をはぎ取った。

 1941年に陸軍に入隊した矢野さんは、
44年夏、旧満州からフィリピンに転じた。
米軍との激戦で日本軍約60万人中50万人が死に、
矢野さんの部隊の生き残りはわずか1割。
フィリピン人は100万人以上が犠牲になった。

 45年12月、25歳で復員。
家庭をもうけ、砂利運搬船を持ち、懸命に働いた。会社を興し、財をなした。

 ■狂気・むごさ、碑に
 戦後40年がたったころ、同郷の陶芸家・安倍安人(あんじん)さん(74)が、
矢野さんの戦中の日記を偶然読んだ。
収容所でトイレ紙にメモしたものを引き揚げ後、大学ノート6冊に清書していた。
「きれいごとじゃない、人間と人間のつぶし合いを、
矢野さんは克明に書いていた。驚きました」

 日記は安倍さんらの手で出版社に持ち込まれ、
「ルソン島敗残実記。」と題されて86年、世に出た。
矢野さんは何も言わず、子や孫に一冊ずつ渡した。

 長女のみゆきさん(66)にはショックだった。
目を背けたくなる父親の行為が描かれていた。
幼いころ聞かされたのは、フィリピン人や戦友とののどかな交情の話ばかりだった。

 妻の清美さん(86)は驚かなかった。
夫の腰には、敵に撃たれた銃弾のかけらが残っていた。
「いくつも傷を抱えているのは、わかっていました」

 本が出て数年後、矢野さんは近くに住む彫刻家の近藤哲夫さん(71)に、
兵士の銅像を依頼した。
「ただの慰霊碑じゃない。人間を異常にしてしまうほど、
戦争はむごいもんだと伝えたい」と口説いた。
91年3月、像は完成した。

 矢野さんは、神さんに語った。
「僕ができんかったことをあなたがやろうとしている。
自分ももう一度、話さなくちゃいかんと」
 戦場で起きたことを語れる人は、年々去ってゆく。
神さんは、他の元兵士の証言とともに矢野さんの映像を編集し、
若者むけの平和教育に使っている。
フィリピンの戦争被害者の前でも紹介された。

 矢野さんは最後の数年、たびたび人前で体験を語った。
戦争のことを考える若い人や団体に出会うと10万円、100万円といった金額を寄付して応援をした。
 体調を崩して入院したのは去年1月。
最期の日、「8月15日まで生きたい」と繰り返した。
極限状態のなかで死んでいった戦友を、毎年思う大切な日だった。

 残された庭の像は、「不戦之碑」と名付けられた。
兵士の肩に、蝉(せみ)しぐれがふりそそいでいる。(石橋英昭)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201308140587.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201308140587

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朝日デジタルの記事には下の写真も掲載されています。

・ 矢野さんが残した「不戦之碑」と妻の清美さん=愛媛県西条市、石橋英昭撮影

・矢野さんの証言を収めた映像=ブリッジ・フォー・ピース提供


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