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「大阪人として生きる帰国者――石田さん母娘」 2013年7月24日(水)No.717

2013-07-24 18:46:36 | 中国帰国者
中国帰国者と言っても身の上は様々で、
一人ひとりが一口に語れない歴史を持っている。

帰国者をときどき「帰国子女」と言う人がいる。
それを聞くと単にちょっとした言葉の間違いとして片づけられないものを感じる。
親の仕事の都合で海外暮らしをしたという点で共通するといっても、
会社の海外出張と日本帝国の満蒙「開拓」政策を「いっしょ」とは言えない。
同様に、引揚者や帰国者に対して国内で敗戦をむかえた人たちの中には
「敗戦で苦労したのは私らもいっしょよ。あなた方だけじゃないの。」
と言う人もまた多いと聞く。
こういう人たちには想像力というものがないのかと疑う。
銃火の下、土地勘もない異国で当てもなく逃げ惑う中、
子どもが泣くからといって親が自分の手で子どもを殺す姿を目の前で見、
何とか生きのびて50年後に帰ってきたときに、
「ああ、50年もいたんじゃ帰りたくなかったでしょう。
向こうの方が良かったんじゃないの。」
と言われた中国残留婦人もいる。
敗戦後、中国人と結婚して残留。
文革時、誰にも言えない思いを胸にかかえ、川のほとりで
「天上影はかわらねど 栄枯は移る世の姿、 
映さんとてか 今もなお、 ああ 荒城の夜半の月…」
と唄いながら一人で何回泣いたか分からないと語る、
1930年生まれの須田初枝さんには、帰国後に投げかけられた
そんな日本の人々の言葉が辛かった。(註)

帰国者1世の一人ひとりに聞いていくと、
呆然となるほど過酷な体験ばかりだ。
一体なんのために国は満蒙開拓団を組織したのか、
結局、誰のためにもならず、国のためにもなっていない。
ただ、中日両国民の中に怨みと怒り、恐怖と悲しみを産んだだけだ。

帰国者2世の石田華絵さんと石田キコさん(3世)母子には、
直接にそうした体験はない。

〈大阪心斎橋で 石田華絵さん(右)、キコさん(左)〉

ハルビン生まれの華絵さんは結婚してキコさんを産んで間もなく、
1世の父の住む日本に渡った。
既に改革開放の花開く時期だった。
華絵さんは自分の娘が日本も中国も自分の祖国と思えるように、
名前も自分の名字「石田」と夫の名字「李」の二つをつけた。
即ち、「李」=「木+子」=「キコ」である。
頑張りやの華絵さんは夜間中学に通って言葉の壁を乗り越え、
夫婦で一人娘を大学に入れ、中国の大学生活も味わわせたくて、
この春、キコさんを江西財経大学に短期留学させた。
キコさんもそんな両親の想いを十分理解する聡明な子だ。
彼女は大阪の街の様子、大阪人の気質、大阪弁など、
地元大阪を生き生きと江西省の学生たちに紹介し、
授業外では学生たちと中国語で交流した。
江西財経大学日本語学科では初めて日本からの同年代の若者が来るので
とても湧きかえった。
こんなふうに地道に民間交流によって友情の輪がひろがりつつある。


政府間の交渉がうまくいかず両国間の関係が険悪になっている昨今、
私たち庶民ができることはひたすら、
一人ひとりと知り合い、友達になり、平和交流の大切さを声に出すことしかない。
残留婦人、残留孤児の塗炭の苦しみ、
取り返しのつかない時間を、再び、これから生きる人々に味わわせないために。


(註)「二つの国の狭間で-中国残留邦人聞き書き集 第1集』
(編集発行 中国帰国者支援・交流センター 2005年)

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