今日、梅田茶屋町で中国と日本を行き来している田さんに会った。
ECC語学学校の中国側窓口の仕事をされている田さんは
温厚で、若いのに懐の深い人だった。
秋からお世話になるかも知れない山東省のことなどをいろいろお聞きしたのだ。
もう、外国というにはあまりにもご近所様の国同士で、
田さんと話をしていると、
日中政府間のぎくしゃくさ加減がどこの世界のことかと思われるのだった。
4年半前にほぼ初めて中国に渡ったとき、
上海空港の入国係官がムッツリとしかめっ面で応対した。
学生たちに「どうして中国の男性たちはいつも怒っているんですか」
と聞いたら、学生たちは笑って、「警察や政府の役人はいつもそうです」と言った。
そんな時代もあったな、と言えるほど今は変わってきた。
下の中島恵さんのレポート「『中国はよくなっている!』信号待ちで思わず涙した私」
の中で、人々のケンカ腰の雰囲気を
「毎日頭の中に『ロッキーのテーマ』が流れているような感じ」
と表現している箇所は私の体験からも頷ける。
しかし、それも日々、変化している。
今の中国の一端が分かる(全部ではない、中国と一口に言っても広いので)
親しみやすい文の一部をご紹介します。
「中国はよくなっている!」信号待ちで思わず涙した私
2015年3月20日(金)
それは、本当に偶然の、とても短い間に起きた小さな出来事だった。
上海市内で私が宿泊しているホテルの近くにある横断歩道に立っていたときだ。私の斜め後ろにいた母子の会話が耳に飛び込んできた。
「ほら、あそこを見てごらん。赤信号でしょう? あそこが赤のときは渡っちゃいけないんだよ。あれが青色になったらお母さんと一緒に渡ろうね。いいね」
30代前半くらいのお母さんが信号を指差しながら、3~4歳の娘に向かって一生懸命語りかけていた。早く渡ろうと前のめりになってぐいぐい引っ張る娘の手をしっかり掴んで、腰を落として、じっくりと諭すお母さん。娘も途中から理解できたのか、「うん、うん」とうなずき、母親に向かってにっこり微笑んでいる。
その姿を振り返って見た私はものすごくびっくりして、思わず母子の顔を交互に眺めてしまった。
とくに裕福そうでもない。かといって貧しい人にも見えない、ごく普通のお母さんとかわいい娘さん――。お母さんも私に気がついたのか、まるで「今ね、うちの娘の教育をしているところなのよ」とでもいいたげな表情で、にこっと微笑んでいる。私も思わず何か話しかけたい衝動にかられたが、そのまま母子の横に並んで信号が変わるのをじっと待っていた。
とてもうれしくて、心がホカホカと温まる気持ちになった。
そのとき、赤信号で立ち止まっていたのは私たち3人だけだった。
大勢の人々は当たり前のように横断歩道をどんどんと渡っている。
青信号を堂々と渡る
人の波に逆らって突っ立っている私たち。ときどき、私の肩にぶつかって「邪魔だな」という顔で睨みつける人すらいる。その場に立ちつくしながら、ちらっと娘の顔をのぞき見ると、娘も不思議そうな顔をして、次々と信号無視をして渡っていく人々を見ていた。何ともいえない、気まずい気持ちになるとともに、こんな社会に対する悔しさと、ここに立つ母子と一緒にいるうれしさと、何だかよくわからない感情がない交ぜになって、涙がじわっとこみ上げてきた。
青信号になって、ようやく母子と一緒に堂々と道路を渡ることができたとき、目からどんどん涙があふれてきて、止まらなくなってしまった。母子は私とは違う方向に歩いていったので、私は急いで涙を拭いて、地下鉄の階段を早足でかけ下りた。その瞬間、私の頭の中に「中国はよくなっている」というセンテンスがぱっと浮上し、パソコンの動画の上に飛び交うテロップのように、右から左へと何度も繰り返し流れていくのがわかった。
そう、私はこの瞬間、気がついた。中国社会はだんだんと、よくなっているのだ――と。
上海から帰国してすぐ、担当編集者Y氏に会った。
「上海はいかがでしたか?」と聞かれた私は、真っ先に一番思い出に残っているこの横断歩道の話をしたのだが、話しながらまた涙がこみ上げてきてしまった。会社の会議室で突然泣き出す私にY氏は面食らっていた。申し訳ないな、と涙を拭きながら説明しようと思った瞬間、なんと彼は机をバンバン叩き出した。
「泣いてる! 中島さん、本気で泣いてる! うわっ、おもしろい! これはおもしろいですよ!」
「はっ? 何が?」
ムッとする私の前で、こともあろうにY氏はこれまで見たこともないような、はち切れんばかりの表情で笑っていた。
まさか泣いている女性を見てケラケラと笑うとは、男性として言語道断。Y氏、ちょっとあなた、あまりにもひどいんじゃないの? と思い、頭にきたのだが、それより早く彼は「書きましょうよ。これは、中島さんにしか書けない原稿ですよ! すごくいいエピソードですよ!」といって、目をキラキラさせ、またドンドンと机を叩いて笑い転げた。確かに私はちょっと変わった性格ではあるが、担当編集者を信じて素直にエピソードを話したのに、まさか、こんなにもバカ笑いされるなんて……。
「これは、中国の大きな変化の一端かもしれないんです」
とはいえ、笑われてはこちらもムキになる。
現在の中国のような「ルール軽視」の無秩序な国で、赤信号を自分の意思で待つことがどんなに難しいことなのか、分かってもらわねばならない。
「交通ルールを無視するのが“普通”の中国で、赤信号で渡ってはいけない、ということを幼い子どもにきちんと教えることは並大抵のことではないんです。だから、あのお母さんは自分が置かれた環境に惑わされないすばらしい人だし、そんな人を街で見かけたことは、私にとってまさに奇跡。もし2~3分違いであの場に立っていたら、私たちは出会わなかったかもしれないじゃないですか。そして、ああいうことをしているのが、人口13億7000万人の中国で、あのお母さんたった一人だけ、とはとても思えません。中国でも交通ルールをきちんと守ろうとしている人や、道徳を重視している人は、もしかしたらあのお母さんの背後に、上海でも数十、もしかしたら数百人、いや数千人はいるかもしれません。中国の社会は明らかに以前とは違います。変わってきているんです。その象徴を私はあの横断歩道で垣間見たわけで……」
全文は下のサイトでお読みください。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20150317/278815/?P=1
自分で左右を確認して、安全だと判断すれば自己責任でどんどん渡ってしまうのも、個人としての合理的な考えに基づくものだと思います。
信号は守っても、スマホを見ながら道を歩いている日本人のほうが、自分の身を自分で守る自己責任意識が欠落しているのではないか。と思います。
コメントありがとうございます。
ブログタイトル「中国はよくなっている!」ですが、自分で書いておきながら、後で私も、「よくなる」の基準はどこにおいているのかと自問自答しました。「良い」代表の日本から見て、中国を「悪い」国として扱うことにならないか、説明を加える必要があるのではなかったか、とか。
ですので、じろうさんが寄せてくださったコメントは、まさに欠けていたものを補足してくださったと喜んでいます。
中国の「信号無視」が悪玉代表、日本的「信号固守」が、善玉代表と言えるか。もちろん、NO!ですね。
日本、特に東京に行くと、遵法(遵法精神ではない)の塊のような人々に遭遇します。
同じ日本でも、大阪は少し違います。赤信号でも車が通っていなかったら、多くの人は渡ります。ただ、子どもにしつけをするために、ずっと待つことは必要で、それはそれでやっている人が多いです。
東京に行くと、「ルールに支配されている人々の街」といった印象は否めません。これは、日本人の、自己無き集団への依存傾向と共通するイメージです。
しかし、多くの中国人の法律無視は、「自分の身は自分で守る自己責任」というのとは、また違います。
南昌市の例ですが、バスに乗るとき、乗客が一度に入口に殺到するので擦り傷が絶えず、靴が脱げても拾えない、あげくに携帯を掏られる等々、たいへんな事がたくさんあります。また、大学食堂の昼食時も売切れる前においしいおかずを買うため、我先にとカウンターに押し寄せます。列をきちんと形成するのは、白いご飯のところだけです。日本で敗戦直後、買い出しの汽車に乗るためにどこからでも人々が飛び乗ったりした例がありますね。それに似た感じです。
ほとんど弱肉強食的、あるいは自己中心的行動です。
その行動を説明するのに、中国の若者はよく「中国は人口が多いですから」と言います。「人口が多かろうが、少なかろうが、バスに乗るために30分立って待っていた人を、たった今バス停に着いたばかりの人が、押しのけて乗るのは正しいことですか?」と私が聞くと、「いや、間違っている」と認めます。
中国は中国で、直さなければならないところがあり、それは日本が直さなければならないことと一致していません。
日本に戻れば、数日でクサクサしてきます。真心無き遵法の塊に遭遇するからです。
中国では、信号無視の車が平気で通るのを、こちらが青信号でも我慢しなければならない場面が多いのです。我慢しなければ轢かれますから。また、お巡りさんが信号を守らない車を制止すると、「私を止めたら、お父さんに言ってお前を首にしてやる!」と若い女の子が怒鳴りつけたという記事を読んだことがあります(他の省)。法律はあるが法治国家ではないと言われる所以です。
位相が違うのです。日本が良いわけでは決してありません。
インターナショナル・マナーについて言えば、それは往々にして欧米のマナーです。欧米の傲慢さは、それに気づかないことです。
どこかに一つの確固とした絶対的ルールなどない、と私は思います。
中島恵さんの文の「体験談は分かるけど、薄っぺらだな」といった印象は、おそらく彼女の文に、(日本の方が中国より、たいがい進んでいる)と信じている気配がそこはかとなく漂い、既成の価値基準をそんなに疑わない考えの持ち主だろうと読者に思わせるからでしょう。
コメントありがとうございます。私のブログ文が不十分なため、豊田先生からも補足のエピソードをいただくことになり、恐縮です。
公共のマナーが守られていれば、それだけでいい国だというわけではないことは、日本人が自戒の意味で確認しなければならない点ですね。
また、南昌のバスに乗車するときは、確かに『ロッキーのテーマ』がバックに流れますが(笑)、南昌の人たちの心の温かさについては、私もいくらでも例をあげることができます。
一つ披露すれば、宿舎の管理人のおばさん、ミズ劉です。いつも、こちらが分かろうが分かるまいが中国語で通す年配の女性でした。2012年9月、尖閣問題で反日デモが中国全土を席巻したとき、南昌の私の宿舎も厳戒態勢になり、私は外出禁止で授業もストップしたことがあります。外国人教師の宿舎入り口を管理するミズ劉は、「大丈夫、大丈夫。もし変な男が入ってきたら、私がビシバシ叩いてやるから!」と、叩く仕草までして息巻きました。また、買い物にも行けない私に、自分が非番のとき、野菜をいっぱい買って部屋まで持ってきてくれたのもミズ劉です。日本語学科の先生方も、熱い友情を示して私をガードしてくれました。そして学生たちも……。
今振り返っても、目頭が熱くなるもてなしを私は何度南昌で体験したことでしょう。
公共のマナーはこれから10年後の中国を待てばいいと思います。そして日本人は、心の温かさを表現する技を中国人から学べるのではないかと思いますね。