毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「おっと、今日は国際女性DAYだ」 2014年3月8日(土)No.864

2014-03-08 21:33:18 | 中国事情

学生たちが持って来てくれた女性節のお祝いの花束。

 

日本に居たら「国際女性DAY」など、ほとんど気にもされず通り過ぎていくこの日、

中国の職場や大学では「女性節」といって、パーティーや贈り物をする習慣が、

定着している(日本でも真似したらいいのに)。

 

実は女性節は全く頭になくて、

もうすぐ岡山商科大学に留学するトウ碧霞さんのミニ歓送会をしようと

数日前に急遽決めたのが、今日という日だった。

学生たちと巻き寿司を作って食べるというのも久しぶりのこと。

人数も6、7人と手頃で、とてもほっこりと楽しいひと時になった。

日本留学を今月末に控えてドキドキしているトウさんだが、

同じ3年の余立君さん、周文いくさん、施芳芳さん、朱聡さんもこれからの進路を

考えに考えているところだし、

4年の劉慧さんは大連外国語大学大学院の結果待ちで気が気でない状態だ。

いわば宙ぶらりんでストレスフルな状態の人ばかり集まったのだが、

巻き寿司、餃子といった食べ物を前にその苦しい状態を感じさせる人は誰ひとりいなかった。

食べ物はヒトの心をほぐすのだな。

さらに今日は、なんと、日本語学科卒業生の楼晨けつさんが立ち寄ってくれた。

6月の大学院卒業を前に、卒論審査のため、実習先の浙江省杭州から戻ってきたのだ。

後輩たちは皆、彼女の世話になっていた子たちで、先輩との思わぬ再会を喜んだ。

江財大で日本語学科ほど、先輩と後輩の交流がある学科も少ないと聞く。

こじんまりした少人数の学科の良さだろう。

 

昨夜は高松日中友好協会の豊田英紀先生を財経大学にお招きし、

貴重なお話を伺う会を3年主催で開催したのだが、その話はまた日を改めて。

 

 

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「曇りなき心で学生の声を聞いてほしい」 2014年3月7日(金)No.863

2014-03-07 09:40:14 | 中日(日中)関係

昨日の石塚記者が感動した雷国華さんの作文を再度紹介する。

(昨年9月16日 No.749で一度紹介した)

雷国華さんは、3人姉妹の末っ子で、

お父さんは「女の子に高等教育を受けさせる必要はない」という考えの持ち主だったが、

お母さんはろくに学校に行けず、字も読めない不自由さを噛みしめて生きてきた人で、

何とか子どもたちを高校まであげたかった。

長女、次女が中学を卒業する時は、両親の大ゲンカでたいへんだった。

結局、二人の姉は進学をあきらめ、中学を出て就職した。

その後、お母さんは自転車を一台買った。

それもお父さんの不興を買ったが、

お母さんはかまわずその赤い自転車に手作りの漬物を載せて、

市が開かれる近隣の村に売りに行き、お金を貯めた。

そのお金と二人の姉の協力で、雷国華さんは高校、大学へと進学できたのだった。

 

江西財経大学は江西省や近隣の省では名の通った大学だが、

彼女が1年に入った時、

「私はこの大学にしか入れませんでした。残念です。

北京の大学に入学して、母や姉たちに恩返ししたかったです。」

と言った背景はそういうことだと後で知った。

下の作文は「中国人の日本語作文コンクール」(日本僑報社主催)の募集テーマ、

「中国人が語る日本についての感動」に応えて彼女が書いた渾身の作品である。

(彼女は今、就活で深センに行っているはずだ)

 

「まだ見ぬベビーへの手紙」雷国華

親愛なるベビー、元気かい。
私は君の母だ。実は今22歳で、君はまだ生まれていない。
母はボールフレンドさえも見つからないのだ。
しかし、先日林克之さんのことを知った後、
ベビーに林さんのことや中日関係について少し話しておきたくなった。
私は大学の専門が日本語だ。
そして、日本語が好きで、尊敬している日本人が数多くいる。
君がこの手紙を読む頃はもう大きくなっているだろう。
中日関係についても自分の考えを持つべきだ。

君の成育環境をちょっと想像すると、多分こうだろう。
テレビでは抗日ドラマが絶えず放送され、
教科書や新聞には中日戦争についての描写がいっぱいあり、
インターネットで日本人を獣とみる文章や映像が少なくない。
しかし、私は君に教えたい。
戦時中、日本が中国で細菌人体実験をしたのは全て事実だが、
この残忍な行為は以前の日本人が、以前の軍政下でしたことだ。
現在の日本人と何の関係があるか。
現在の日本人は、ただ日本に生まれたから、日本人になったのだ。
ベビーは中国の歴史を忘れてはいけないが、
日本人について何も見ずに、むやみに恨みを持ってはいけない。
日本人の中には、心が優しい人がいっぱいいるよ。

今日、ベビーに紹介する林先生がその一人だ。
林克之先生は1946年日本の静岡県で生まれたが、
1997年から、中国桂林市陽朔県シンピン町やシンピンのラオジャイ山を
ずっと守ってくださっている日本人だ。
このラオジャイ山はカルスト石筍山で、高く険しいので、
当時、登れる人は柴刈り人だけだった。
頂上からの絶景を皆に見せたいので、
先生は自腹でラオジャイ山に通じる石段を作ろうと決めた。
一般の寄付者と違い、先生は毎日自分が雇用した農民工と一緒に働き、
セメントや砂を自分の肩で山中に運んだ。
ついに、先生は一人の工人さえ雇用するお金もなくなったので、
自分一人で工事材料を運び、一人でその石段を作るしかなかった。
当時、先生はもう五十歳を超えていた。
その後、先生は日本に帰り、金策に駆け回って、
さらに、二つの休憩亭や立派なトイレを作ってくださった。
先生のおかげで、シンピンへの観光客は毎年数千人だったのが、五万人に激増した。

しかし、話はここで終わらない。
それから、林先生はシンピンに定住し、ボランティアとしてごみ拾いを続けている。
この手紙を書いている今で、もう16年になる。
しかし、こんな優しい日本人でも、
シンピン町でさえ全ての人が尊敬や好意を持っているとは言えない。
シンピン町政府が林先生を讃えた石碑の先生の名前は、
ある人に壊され、先生に悪口を言う人もいる。
その原因はもちろん中日戦争だ。

しかし、ベビー、じっくり考えたら、これは正しいのか。
林先生はただ普通の一人の日本人だ。
何も悪いことをしていないどころか、
中日友好や世界平和に貢献している人ではないか。

ベビー、人を判断する基準は先祖が何をしたかではなく、
今生きている人の行動で判断すべきだよ。
そして、間違わない人間はいないよ。
もし、誤った人が正しく改める意欲があったら、
私たちは協力するべきじゃないのか。
これは処世訓だが、国家間にも当てはまる。
中日の間には、怖い記憶がいっぱいあるが、温かい思い出も少なくない。
今、両国には反日派や反中派が確かにいるが、
中日友好のため奔走している人も数え切れないほどいるよ。

ベビー、未来の世界は君たちの考えで決めるものだ。
歴史は忘れられないが、歴史だけに拘るのも良くないよ。
そして、普通の国民と政府を区別すべきだ。
政治とか、戦争とか、庶民に決められるものではないのだ。
もし、相手が胸襟を開いてきたら、君も相手を大切にするべきだ。

ベビー、未来の世界はいろいろ意外なことがあるに違いないが、
誰に対しても、優しい心を持つことをいつまでも忘れてはいけないよ。
そして、国籍を問わず、全力でいい人を保護するんだよ。
母もそうして生きるよ。
母:雷 国華

 

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「読売新聞石塚記者の仕事 その2」 2014年3月6日(木)No.862

2014-03-06 20:35:42 | 中国事情

2月24日、日本の読売新聞(関西版夕刊)に私のインタビューと、学生雷国華さんの作文要旨が載った。

記事を書いてくれたのは石塚直人記者だ。

石塚さんは、以前、このブログで紹介した現4年生の雷国華さんの作文を読んで、

何とか記事にしようと、あの読売新聞で奮闘を重ね、実現された。

記事は、石塚記者の血と汗の結晶である。

字数制限、内容制限、語彙制限を工夫と粘りで克服するその努力に、日本のジャーナリストの立ち姿が見えた。

記事を読んで、日本や中国から、コメントやメールを何通もいただいた。

さらに、何と、江西財経大学のニュースにまで、この記事が取り上げられた。

こうして、記事自体が海を渡り、中日友好の働きを担う事態となっている。

下に石塚直人記者の記事を掲載させていただく。

言葉遣いも「侵略」とか使えないので(読売だから~)、「攻め込んだ」など苦労しているのが

分かっていただけるだろう。

―――学習通じ 薄らぐ反日感情―――

学生の作文 「懸け橋」決意

領土や歴史認識を巡って日中両国間の金塗油が取りざたされる一方で、中国の大学は4割が日本語学科を擁し、日本語教育が盛んだ。学生たちは何を学び、日本とどう向き合おうとしているのか。2010年秋から江西省の江西財経大学で日本語を教えているブルーはーと(後BH;註1)さんが、冬休みで帰省した際に聞いた。 (石塚直人)

 

「日本語を学ぶ学生も自国を愛しており、尖閣問題での政府の対応も正しいと思っています。

でも、暴動など感情的な〈反日〉には否定的で、自分たちが両国の懸け橋になろう、

という気持ちが強いですね。」

江西財経大学は省都・南昌市にあり、中国南部(註2)の各省から成績の良い若者が集まる。

農村出身者が過半数を占め、家族の出稼ぎでようやく進学できた学生が多い。BHさんは

全学でただ一人の日本人教員。授業では、自らの米国留学体験から大量の宿題を出して

学生を鍛える。

「入学当初の日本語の知識はゼロ。それが3年生になると、一通りの文章が書けるようになります。」

全国規模の「中国人の日本語作文コンクール」(日本僑報社主催)では、

ここ3年続けて複数の上位入賞者を出した。

上達の原動力は、家族への恩返しを誓う学生たちの猛勉強。

「先生」に最大の敬意を払う中国社会の伝統もある。

入試の成績で学部・学科が振り分けられるため、他の分野が志望だった学生も多いが、

「なぜかしばらくすると日本語が好きになるんです。」

 

BHさんが赴任してすぐ、尖閣海域で中国漁船と会場保安庁巡視船の衝突事故が起きた。

ただ、地方の反応は比較的穏やかだったという。

「日本のアニメには夢がある。」

「友達を思う心や決してあきらめない精神にひかれる。」

と話す学生も多く、東日本大震災から1年を迎えた2012年3月11日には、

学生有志が呼びかけ、犠牲者を追悼する学内集会も開かれた。

 

しかし、野田前首相が尖閣諸島の国有化を宣言した同年秋には、

南昌市でも反日デモの嵐が吹き荒れ、日本語を学ぶ学生たちの心は揺れた。

「『休みで帰省しても、近所に日本語学科の学生だと名乗れない』

と作文に書いた子もいました。

もともとテレビの抗日戦争ドラマでは日本気兵が中国人を襲う映像が日常的に流れ、

『キサマ』『バカヤロー』の単語は子供でも知っていますから。」

 

この頃の学生の作文には、自分たちが「日本人にもいい人がいる」

と周囲を説得していくしかない、という悲壮な決意が目立った。

「日本語学科の私たちまで日本人に敵意を抱いたら、両国関係はどうなるでしょうか。」

「戦争なんか、嫌。」

卒業生からは「戦争を煽る中国人は本当に少人数で、しかも盲目的な人たち。」

というメールも届いた。

 

彼らは日本の平和憲法も1995年の村山談話も学校で習っていない。

BHさんは、中沢啓二の漫画「裸足のゲン」や与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」

なども教材に使い、平和を願う日本人の心を伝えた。

 

雷国華さん(4年)は、今年度の日本語作文コンクールに、

未来のわが子に向かって中日両国民の友情を解く文章を寄せた。=別掲=

「彼女には日本軍のために障害を負った親戚がいて、

子ども時代から日本人に反感を持っていましたが、大学で等身大の日本を学ぶことで、

〈混迷した現代も2000年の歴史のひとコマ〉と考えられるようになったんです。」

「日本は侵略戦争を謝罪していない。」

と不信感を露わにした作文を書いたことのある男子学生は、

12年春に日系企業に就職し、通訳の仕事をしている。

同年秋にはBHさんの安否を気遣う電話をかけてきて、

「反日デモの背後には貧富の差、言論の自由がないなど中国社会への不満がある。」

と話した。

「彼らは精いっぱい日本について学び、友好のために働こうとしています。

かつて中国に攻め込んだ日本人の側も、きちんと歴史を学び、

そこで学んだものを彼らと共有するべきではないでしょうか。」

―――記事ここまで―――

 

註1:記事には本名が載っていたがここでは当然ブログ主名に変更。

註2:厳密に言うと、南部のみならず、江西省近隣の省や、黒竜江省、吉林省、内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、山西省、河北省など、学生の出身省は広範囲である。

=別掲=とある雷国華さんの作文は(実はこれが記事のメインである)、

明日、改めて全文を紹介することにして今日はこれで一旦筆を置きます、

て言うか、キーボード打ちをやめます。

 

 

 

 

 

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「『海行かば』考 その2」 2014年3月5日(水)No.861

2014-03-05 20:29:55 | 

南昌市内の日本語コーナー設立者である博堅先生が、昨年、

「海行かば 水浸(みず)く屍(かばね)

山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね)

大君の辺(へ)にこそ 死なめ 顧みはせじ」

と、朗々と歌われた時、心中複雑だった。

(なぜこの歌を中国人である博堅先生が知っているのか、

知っているとしても、日中戦争当時に盛んに歌われた軍歌を口にして平気なのか)

というのが、まず第一に浮かんだ疑問だった。

先生は、1933年に福島で生まれ、11歳まで福島市で育った。

この歌は福島市の人々が、戦死した兵士のお骨を入れた白い箱を持ち、

町の中を行列して歩いていたときに聞いて自然に覚えた歌だという。

まだ歌の意味が分かるには幼すぎたが、

音感鋭い先生は「菜の花畑に~」や「アムール川を北に見て~」同様、

全身で吸収したのだろう。

 

歌詞を読めば、天皇への忠誠を謳ったものである。

元々、万葉の歌人、大伴家持が一族を代表して

(「陸奥国より金(くがね)を出せる詔書を賀(ほ)く歌」という長歌+反歌を

天皇に献上したものの一部だという。

当時は藤原氏擡頭の時代で、大伴氏の勢力は既に衰えていた。

この歌で大伴の家系を強調した家持は時代錯誤の感を与える、と加藤周一は言い、

また更に、この奈良時代の時代錯誤の歌を、

戦時下の宣伝の道具にした当時の権力は、二重の時代錯誤であると、突き放している。

この厳しい批評は、加藤周一(1919年東京生まれ)が太平洋戦争(1941~45)当時、

22歳~26歳だったことで納得できる。

戦争に突入してから敗戦までの時期を、

大学生として、のちに、医局の職員として過ごしながら、

一貫して、あの愚かな戦争に嫌悪感を持っていた彼は、

この「海行かば」にも、戦争ムードを盛り上げる道具以上の感想が無かったのだろう。

あの戦争が嫌で嫌でたまらなかった若者の気持ちとして、よく理解できる。

 

しかし、私が初めてこの歌を聞いたのは、1970年代前半、

自分でノンセクト・ラジカルを標榜していた若者からだ。

既に大学闘争は下火になり、多くの若者たちは大学に戻ったり、中退したり、

「新左翼」党派に所属したり、または行方不明になったり、死んだりした。

ムードはとことん沈鬱だった。

闘いに敗れたといっても、いったい、あれは何と闘っていたのか。

 

そんな時に、「海行かば」を歌う若者は、

「これ、太平洋戦争のときの軍歌やけど、なんか反戦歌に聞こえるわ」

と言った。

「海行かば 水浸(みず)く屍(かばね)

山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね)」

このフレーズを繰り返し歌っていた。

おそらく彼は「大君の云々」は知らなかったのではないか。

この2行だけ取り上げると、確かに、荒涼たる風景と累々と横たわる屍が思い浮かぶが、

それ以上でも以下でもない。

さらなる想像と思い入れは一人ひとりの作業に帰す。

 

思えば、この2行だけの詩は、まるで映画「永遠のゼロ」のようだ。

どっちにでも転ぶ。

屍を踏みしだいて、さらなる殺し合いに進むのか、

命を失う慟哭を自分の世代で終わらせるのか。

3行目は一人ひとりが選択するのだ。

 

 

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「南昌は寒い雨期?」 2014年3月4日(火)No.860

2014-03-05 00:50:56 | 中国事情

う~さむ!

また、冬が戻ってきた(来なくていいのに)。

3月、4月は雨が多く、今週は、寒いわ、雨だわ、で、踏んだり蹴ったりだ。

先週は厚いコートを春用に着替える学生が増えていたが、

今週は再び「春まで生き延びるぞ」ファッションに逆戻り。

下はスクールバスのバス停でバスが来るのを待つ間、一緒に待ってくれたトウ碧霞さん。

ちょっとアヤシイ。

 

今日は2年の会話授業の日。

2年生はたった18人だが、とてもパワフルで表現力のある子が多い。

寒さもモノともしない元気な顔ぶれを見てください(授業後のスナップ)。

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「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね」 2014年3月2日(日)No.859

2014-03-02 16:21:18 | 日本語

「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね」

このフレーズでどのような感情を表現するか、何年か前、日本文学の時間に、

学生たちにやってもらった(て言うか、無理にやらせた)ことがある。

 まず、鼻の長いぞうさんを話者はどう思っているか想像するところから始めた。

しかし、中国の大学生たちから応えは返ってこなかった。

あまりの突飛な質問にクラスは押し黙り、困惑しているのがありありと見て取れた。

私は、仕方がないのでヒントを出した。

①(うわ、なに?その長い鼻。みっともない~~)・・・排他的で意地悪な気持ち

②(うわ~、ゾウさんのお鼻って、長いんだね!知らなかった~)・・・新発見の驚き

③(ぞうさんの鼻は長くて、いいねえ。自分もそんな鼻が欲しいなあ)・・・羨ましい気持ち

「さあ、この3つのうち、どの気持ちだと思う?」

と聞かれたら、アナタは何番を選びますか?

はい、はい、学生たちとほぼ同じデスネ(と決めつけて先に進む)。

圧倒的多数が、①の意地悪な気持ちを選んだのだった。

それで、皆で意地悪~く

 ぞ~うさん、ぞ~うさん、お~鼻が 長いのね~~

と歌ってみた。とても上手だった・・・・・・。

しかし、言われた方のぞうさんはどう応えたのだろうか。

「そうよ、母さんも長いのよ」

という言葉に込められたぞうさんの気持ちを想像してみた。

・悔しい ・長い鼻が自慢だ ・だから何? ・ゾウという動物はそういうものなのです

といった意見が出たと記憶している。

「ゾウという動物はそういうものなのです」には、心中喝采していたが、私は冷静を装った。

 

いったい、まど・みちおさんはどういう気持ちでこの詩を書いたのだろう。

私が大好きで、授業に何回も使わせていただいた詩をたくさん書いた

まど・みちおさんが亡くなったという。

みんな、いなくなってしまう・・・・・・。

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「最近のごはん」 2014年3月1日(土)No.858

2014-03-01 22:48:02 | 中国事情

3月になった。雨と風での寒い幕開けだ。

今朝、八一公園の日本語コーナーに行く途中、

大根の安売りをしていた。人々が群がって買っていたので、つられて、私も1本買った。

特大サイズのが1.6元(日本円では約26円)。

雨が本降りになってきたので早めに解散し、

財大の劉慧さん、トウ碧霞さん、施芳芳さん、周文いくさんと一緒に帰った。

いつも下露でバスを降り、最寄りのスーパー「全家百貨」に立ち寄るのが習慣になっている。

今日は、日本で見かけたことのない「紅菜柳」というのを買った。

茎部分は蕨(わらび)風、先端部は菜の花風で、1種類で2つの味が楽しめる。

炒めても良し、炊いても良し。

今日は朝買った大根と冷凍餃子、ニンジン、ワカメなどを炊いた後、仕上げに菜の花部分を添えた。

 

大根とニンジンの葉っぱはこの前からのに仲間入り。一気に友達が増えた(右端が古参)。

 

この際、春節明けに4年生の劉慧さんが実家からお土産に持って来てくれた

お餅もご紹介しよう。味は完璧に粽(ちまき)だ。美味しかった!

上は固い状態のもので、下は薄く切って蒸し、食べられるようにしたもの。

肉や椎茸などが入っている。南昌に来て以来、本当に数々の珍しいものをいただいている。

ありがたや、ありがたや。

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