毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「中国も日本も更けゆく秋」2014年11月11日(花)No.1026

2014-11-11 20:26:42 | 日本中国比較

4年生の施芳芳さんから南昌の秋の便りが来た。

朝、キャンパスで本を読んでいて見かけたという植物の写真(下2枚)が添えられてあった。

ピラカンサ、またの名をトキワ山査子(サンザシ)橘(タチバナ)モドキとも言うらしい。

この写真を見た翌日、

近所の家の前を通りかかったら葉や実の形状が同じものを見かけた。

中国原産で、アジア全域に分布しているという。

日本にはいつごろ伝わったのだろう。

こんなところにも中国との歴史的繋がりが見て取れる。

 

 

さて、立冬となり、大阪も晩秋の様相を呈してきた。

今パソコンに向かいながら、足元がスース―するのを感じている。

まだ冬の服も靴下も出していない。急がなければ…。

下の写真は先週水曜日の関大キャンパスの様子。

学校の敷地に樹木がたくさんあると、そこで学ぶ子ども達・学生たちは

それだけで落ち着いて澄んだ気持ちになれる気がする。

 

 

 

関西大学という名前を聞くと、エリート志向の留学生などは

「関西大学?それ、どんな大学ですか。東京大学とか京都大学なら分かりますけど。」

と鼻先で笑うかもしれない。中国の徹底した競争とランク付けの教育の下では、

子どもがそういう風に育ってしまう傾向が強い。

しかし、科目受講生として言わせてもらうが、私は関西大学がとても気に入っている。

樹木のせいだけではない。

この100%おばちゃん(否、おばあちゃん)は、

図書館で無料でコピーできないのかと聞いてみたり、

学生証があればただでインターネット使えるか尋ねたりするのだが、

職員は、ニコニコして丁寧に、丁寧に、応対してくれる(ああ、こりゃこりゃ。温泉だわ~)。

 

中国に行っている間に、学園祭は終わっていた。

エンタメ系ばかりの看板には、ちょっと心に淋しい風が吹くが、

これも日本だ、私の国だ~と諦めて、取り外し作業をしている学生たちを眺めるのであった。

 

 

 

 

 

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「ちらっと見の上海の街」2014年11月10日(月)No.1025

2014-11-10 21:41:08 | 旅行

夕方5時に浦東空港から大阪関空行きの飛行機が出発するので、

余裕を見て2時には空港に着きたいと言うと、立君さんが2つ提案した。

1つ、午前中地下鉄で豫園に行き、見学する。

2つ、昼にお兄さんのアパートに帰って、周さんが会社の車で来てくれるのを待ち、

近所の美味しい鴨肉ミーフンを食べる。

ということで、評判の豫園に行きたかった私はホクホクした。

 

↓出発前の朝の上海住宅地(お兄さんのマンションの窓から撮った)。

(なんか違和感感じるなあ)と思ったのは電線の束のすごさだ。

 

↓豫園には全世界から観光客が押し寄せ、たいへん混んでいた。

中国はどこの観光地もこうなのだ、と諦めなければならない。

  

 

元々、明代の役人がお父さんのために18年間もかけて建てたという庭園で、

ようやくできた時、肝心のお父さんは亡くなっていたという。

その後、一時荒廃するが、清朝(乾隆帝)時代に再建され、

さらに紆余曲折を経て、1982年、国務院より全国重点文物保護単位と指定された。

上海様式と言われる建築が歴史的雰囲気を伝えている。

   

   

 

 庭園の一角にそびえたつ銀杏の木。樹齢400年だそうだ

  

「郭沫若」の署名があるので彼の直筆文だろう。癖字だな。

文字には性格が映し出されるというが…。

 

↓庭園の職員が洗濯物を隠そうともせず、干している(もちろん庭園の中)。

これは何もここだけに限ったことではない。

あちこちの国家的重要文化財に指定されたところでも、人々は平気で

赤いパンツなどを乾かしていたりする。

日本(特に本州)ではそういうことを絶対しないと思う。

良し悪しではなく、おもしろい違いだ。

 

↓何と、豫園にうちのクロちゃんとそっくりな猫がいた。

うう、クロちゃん、久しぶりだね~~

  

 

 

さて、豫園の外は「豫園商城」と呼ばれ、お土産屋さんなどが立ち並ぶ。

面白かったのが、これ。↓

赤い丸の中に黒い眼鏡のようなのがあり、そこを覗くと紙芝居が始まる仕組みだ。

客が6人そろうと、右端のマイク装備の男性が野太い声で、非常に巧みに昔物語を語り出す。

中国非物質文化遺産に指定されているとのこと。お代は20元だったかな?

 

  

 

↓日曜日で家族連れも多い。肩車の男の子のヘアスタイルは、

今、中国の流行りのようだ。

 

かつら屋さんのマネキン、ここまでリアルにしなくても…。

 

ふう、やれやれ、駆け足で連れて行ってくれた余立君さん、

本当にどうもありがとう。

↓マンションに戻り、インドネシアで買った辛い海苔を、

とても美味しいと言って食べる立君さん。

やはり、江西省人だな。

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「生まれて初めて上海に降り立った」2014年11月9日(日)No.1024

2014-11-09 21:29:01 | 日記

↑上海市内。豫園の近くの通り。いかにも「しゃんは~い」という豫園の建築物の屋根を模したビル。

 

今まで20回以上上海を通った。しかし、いつもただ通り過ぎただけだった。

今回は荷物も少ないし、ちょうど4年生の余立君さんが

上海での実習を10月末で終えるという。

11月1日の夕方、私は満を持して上海の浦東空港から市内に降り立った。

と言っても、余さんと友人の周さんが(またしても周さん。周恩来の周と思うとすぐに覚える)、

周さんの会社の車で迎えに来てくれて(こんなこと書いていいのか)、

自動的に運ばれただけである。

 

空のダイヤが乱れているとかで、夕方5時に着くはずが、南昌で1時間半待機し、

上海着は6時半過ぎになった。それくらいのズレはもはや何でもない。

今まで、もっと、もっと、長時間待たされたことが何回あるだろう。

その夜の市内では、3年前広州市に行ったとき泊めていただいた余さんのお母さんが、

何と、いつの間にか上海に引っ越していて、夜の食事をご馳走してくださった。

広州では伝統の飲茶の数々をいただいたが、

今回は鶏肉をお酒に漬け込んで蒸したもの、とんかつをレタスでくるんだようなもの、

中国にしかない野菜など、そのレストランのお勧め料理を適度に頼んでくださった。

立君さんのお母さんは、薬膳に詳しく、一般的な中国人の注文の仕方とは異なり、

余って困るほど無駄に注文しない。

常に身に赤い何かを身に着け、背筋をまっすぐにして座る余さんのお母さんは、

見ただけで、生きていくための自分の哲学を持っていると思える人だ。

お母さんは、自宅からペットボトルに入れて持ってきた自家製紹興酒を取り出し、

店員さんにグラスだけ持ってきてもらって、私たちは乾杯した。

こういうことが普通にできるのが中国のいいところだ。

 

その後、10時前に私たちは周さんの(会社の)車で、外灘観光に出かけた。

10時半過ぎに着いたが、まあ、夜だというのに何とたくさんの人々が…。

外国人が多い。時々、日本語も聞こえてくる。さすが上海!

4年間居た南昌ではそういう体験はただの一度もなかった。

11時になると、超レトロな時計台の時計が

ボヨ~ン、ボヨ~ンとネジが外れそうな音を出した。

それを聞いた後、観光地を離れ、地元の人たちの夜のお楽しみの場に移動した。

 

着いたところは、南昌の横町にも随所に見られる庶民の食堂街だった。

この食堂街は地元でとても人気があり、朝の3時まで賑やかだという。

中には夜10時半にオープンし、

お爺さんが一人で200食だけ作っているというラーメン屋さんがある。

10人以上の人が行列を作って待っていた。

並んででも美味しいラーメンが食べたいのだろう。

私にはそういうこだわりは全くない。

お爺さんは息子がいて、店の収益金は息子の留学の仕送りになっているそうだ。

 

↓写真のワンタン屋さんも有名なんだって。

 

確かに美味しい。

夢中で食べているうち、ハッと気がついて写真を撮った。

水餃子をゴマダレで食べているような感じ。こんど自分でも作ってみようっと。

 

今回泊めてもらったのは余さんのお兄さんのアパートだった。

お母さんの家は郊外にあり、市内から2時間もかかるので、

お兄さんが市内にある便利な自分のアパートを提供してくれたのだった。

いつもこのように他人のお世話になって生きていくワタシ。

本当にどうもスミマセン。

 

↓お兄さんのアパート。部屋に階段があったりしてオシャレというか。

月々、3500元の家賃だそうだ(高っ!)。

大学卒初任給が3000元から3500元が普通だと聞いたことがある。

 

 

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「先生、お帰りなさい」2014年11月7日(金)No.1024

2014-11-07 22:45:14 | 日本語

10月29日午後、江西財経大学日本語学科がある麦蘆園に向かった。

日本語学科職員室(と言っても日本の学校のような全職員用の部屋ではない)の、

朱先生、厳先生、陶先生を訪ねた。

全く違和感なく、いつもの先生方だ。

私がスナップ写真を撮ると言うと、

厳先生は「今、部屋が散らかっていますよ~」と気にしたが構っちゃいられない。

いつだってこの程度は散らかっているのだ。

 

↓左から、取りあえず仕事をするふりをする厳先生、

急に真面目に何か読むふりをする陶先生、

ソワソワと手に何か持って片づけるふりをする朱先生。

3人とも、メチャわざとらしくて可愛い。

 

そうこうするうち、

3年の徐蕾さん、4年の周文いくさん、施芳芳さんが、さらにしばらく後で譚松さんが

勉強を抜け出して駆けつけてくれた。

他愛ないお喋りをするだけなのに何を話しても楽しくて笑ってしまう。

↓下左から周さん、施さん、徐さん、朱先生。

 

新しくなった第二食堂で学生たちと夕ご飯を食べた。

あの暗く、汚く、床が滑る食堂は見事に変わっていた。

まるで南昌市内のカッコいいレストランみたい。

以前は江西省の辛い料理ばかりだったが、

このレストラン街(各店舗が軒を並べている)には

中国国内のみならず外国の料理もいろいろあった。

学生にとって食べることは、生活上最も楽しみなことの一つだ。

↓見てください、この幸せそうな顔。

 

 天井も、壁もおシャレにディスプレイしてある。

(おや、本棚がある)と思ったら、これはただの飾りなのだそうだ。 

既に卒業した皆さん、在校時にこれができていなくてホント、悔しいですねえ。

  

 

翌日、2時間目に3年生のクラスにお邪魔。

ここではグッときた。教師はクラスに入って学生とともに力を尽くすのが仕事だ。

そうやって2年間、ともにやってきた仲間だ。

3年生全員が醸し出すエネルギーにビンビン共鳴する自分を見つけた。

 

↓あの強くて元気だった女の子達はグンと大人っぽくなっていたが、態度はほぼ同じ。

男性は外見も全く同じ。毎年のことだが、女の子が先に大人になっていくように見える。

男の子は思いを内面に隠し秘めるのだろうか。

 

今回、再会した学生たちも先生方も、八一公園の仲間も、みんな開口一番、

「先生、お帰りなさい!」と迎えてくれた。

ひょっとすると、また何度もここに来ることがあるのかも知れない……。

 

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「今、日本人が中国地方政府から賞をもらう意味」2014年11月6日(木)No.1023

2014-11-06 21:26:57 | 中日(日中)関係

先週、南昌の八一公園日本語コーナー仲間が歓迎会を開いてくれた席で、

何人かの中国の方から、

「政府は政府。我々民間人とはま~~~ったく関係ない!」

(↑これは吐き捨てるような勢いだった)

「政治に対して我々ができることは何一つない。

ただ、自分たちにできるのは民間交流を続けることだ」

といった言葉を聞いた。

一般中国人の政治に対する無力感はたいへん大きいと感じた。

 

しかし、関係ないはずの政治は、常に向こうからやって来る。

江西省政府が一日本人である私に「廬山友誼賞」を与えるということも

昨今の政治的事情とまったく無縁だとは言えない。

2年前、そして去年も江財大外国語学院は私をこの賞に推薦してくれていた。

私自身はそんな賞とは無縁な人生を歩むことに清々しさすら感じる人間なので、

イエイエ、どうぞお構いなく状態だったが、

推薦してくれた先生方自身からして、

「これだけ中日関係が悪化していたら、受賞は難しいでしょう」

と太鼓判?を押してくれていた。

 

それが、今回、2008年以来6年ぶりに日本人が受賞した。

そして今日のニュースは、

周近平国家主席と安倍首相がAPECで

何らかの会合を持つための調整をしていると伝えている。

やっぱり、そういうものだ。

地方政府は中央政府の動向を見て、ボチボチいいかな、と判断したのだろう。

私個人のつたない実践が認められたのは、過分のヨロコビだが、

それ以上に、日本と中国の関係が修復段階に入ることができるのでは、

という一筋の希望の光を垣間見た思いだ。

 

日本国内の奥深くで無責任に中国に対してあることないこと言っている輩には

全く分からないだろうが、

中国で日本語を学ぶ学生たち、教える先生方、

中国で経済活動を展開する日系企業の駐在員たち、

そしてそこで働く中国人社員たちは、

自分のできることを一生懸命、ときには薄氷を踏む思いでやっている。

 

人と人との付き合いで、自分の都合や思いだけをまくし立てる人は嫌われる。

しかし、懐の深い人はそうした人をもすっぽり包んで、

しまいにその人をも変えていくことができる。

国と国との関係もそうである場合、平和希求型外交が展開されていることになる。

棍棒の時代に逆戻りするのは、人類が叡智をかなぐり捨てたときだ。

とまあ、思いがとぐろを巻いてきたので、今日はここまでにしたい。

 

↓APEC会議の行われる北京雁栖湖東側の日出東方凱賓斯基ホテル。

北京は既に厳戒態勢に入っているそうだ。

 

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「4か月ぶりの江西財経大学・その1」 2014年11月5日(水)No.2022

2014-11-05 21:34:36 | 日記

10月29日午前の「廬山友誼賞」授賞式は1時間ほどであっさり終わった。

下の江西財経大学新聞に関連記事が載っている(中国語ですけどね)。

http://news.jxufe.edu.cn/html/20141027/n7743289.html

 

さあ、用事は終わった。

午後は晴れて財経大学のみんなに会いに行ける。

7月初めに南昌を発ったときには、全く想像もしていなかったが、

4か月後、また江西財経大学にやって来た。

懐かしいと言うには、まだ、あまりにもお馴染みの風景ばかり。

まるで昨日の続きのような錯覚を覚える。

 

↓日本語学科の学生たちが毎日勉強している第二教学楼とクスノキ。

もうすぐクスノキの黒い実が歩道に落ち、

通る人々はプチプチ音を立ててその実を踏みつぶすだろう。

 

↓4年前に赴任したばかりの時、掃除スタッフはゴミを素手で処理していた。

怪我でもしないかハラハラしたものだ。

2年ほど前から皆手袋をはめてゴミ処理に当たっている。

日々、刻々と変化する労働や生活の様を自分の目で確かめてきた4年間だった。

ちなみに、今、南昌の清掃員の平均月収は1500元~2000元。

ほとんどが女性、高齢男性である。

日本の大学敷地と異なり、広大なキャンパスを毎日掃除する。

南昌に吹く風はきつい。加えてクスノキの葉は春、秋の2回落葉する。

決して楽な仕事ではない。

 

↓浙江省の西湖の向こうを張って江西財経大学には「東湖」がある。

全中国から観光客が殺到することもなく、

朝の授業前、ひたすら教科書を音読する学生たちがここに集う。

この写真は1時間目が始まってから撮ったので誰もいない。

 

↓外国語学院センターの前にあるペンギン池。

一年生のとき、この池を「ペンギン海」と言っていた学生もいたなあ。

もう卒業しちゃったけど。

奥の赤い車は陶萍先生のマツダのような。

今回、陶先生はどこに行くにも自分の車できっちり私をサポートしてくださった。

感謝、感謝!

(続く)

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「感動し過ぎて表現できない6日間」2014年11月4日(火)No.1021

2014-11-03 10:52:41 | 日記

おととい11月2日午後11時前に我が家に着いた。

翌朝すぐにでもブログに経験談を載せようと、ブログを開いたが、

まもなく書くのを止めた。

うまく書けない。表現できないのだ。

無理に言えば陳腐になるが、『熱いもてなしに心震えた』とでも。

そんな安っぽい言葉で書くのがもったいないくらいの思いを今回私はさせてもらった。

 

しかし、へたくそながら今日は少しでも書こう。

今回私の日程は、ザックリ次のようなものだった。

10月28日(火)午後:関空発-上海浦東経由-夜8時:南昌着。江西飯店宿泊。

10月29日(水)午前:江西飯店で江西省政府主催「廬山友誼賞」授賞式

           午後:江西財経大学日本語学科職員室に向かい、先生方と再会

10月30日(木)午前:財大3年生との交流、午後:新1年生との交流

           夜:南昌八一公園日本語コーナーグループの宴会

10月31日(金)午前:江西農業大学袁老師のお宅にお呼ばれ。

           午後:財大2年生との交流、 

           夜:校内日本語コーナーに参加

11月1日(土)午前:八一公園日本語コーナーに財大生8人とともに参加。

           午後3時半:南昌発ー上海へ。

           夜:上海で4年生余立君さんのお母さんに御馳走になる。

           深夜:余さんと友達の周さんに案内され外灘観光

               地元の人向けの屋台通りで名物ワンタンを食べる。

11月2日(日)午前:余さんの案内で豫園観光

          昼:アパートに戻り、上海で評判の鴨肉ラーメンを食べる。

          夕方上海発-大阪関空午後9時着 10時50分:自宅到着

 

 

 

取りあえず、南昌市内八一公園の日本語コーナーグループのことから始めよう。

 

南昌に行ったら、必ず毎週土曜日にある八一公園日本語コーナーには行こうと決めていた。

日本語を学びたい中国人たち、それに応えたいという日本人たちが、

会員制でも何でもなく、ただ自前で集まり、日本語で話すだけの青空日本語教室だ。

私の4年間の生活は、江西財経大学での仕事と、

八一公園日本語コーナーのボランティア活動が2本の柱だった。

この日本語コーナーへは、2012年9月から11月の間、

尖閣国有化問題に端を発する反日デモの嵐で数か月参加できなかった。

しかし、後で聞くと、日本人で八木先生ただ一人が、

その間もずっと続けて出かけていたという。

日本人が行かなくなれば、この日本語コーナーは潰れるという危機感を持ち、

公園に行く途中、日本人だと分からないように気をつけて参加していた八木先生は、

公園に行けば必ず数人の中国人が待っていてくれたと言う。

そうなのだ。そういう中国人が必ずいるのである。

 

そんな中国人や日本人の仲間たちが、30日(木)の夜、平日で忙しいにも関わらず

南昌市内のレストランで歓迎パーティーを開いてくれた。

 

[10月30日夜のパーティー]

↓中国式ディナー。白酒(バイチュウ)を飲みながらも、皆さんだまだ冷静な表情だ。

江西いすゞ発動機(株)のいつものメンバーの顔も見える。

 

↓左から江西農業大学南昌商学院副学長袁老師、貿易事業家森川さん、江西財経大学陶萍老師、高松日中友好協会から派遣された村杉先生、江西いすゞの久保さん。

ビールは南昌特産の「8°」。

しかし、それは名前だけでアルコール度数は2%台のライトビヤである。

この人たちはそれくらいではビクともしない。

 

 

↓飲むほどに毒舌ジョークが開花する人々。

右から江西師範大学丁勇老師、日本語コーナー大ピンチの際、踏ん張ってくれた江西師範大学八木先生、高松大&岡山大大学院に留学したトウ先生、日本語コーナーの代表劉波さん。

 

 

↓南昌の辛い味の御馳走の中に、こんな悲しげな顔も…。

家鴨さんである。

 

↓家鴨さんは間もなくこのような姿に。食べたのは農大の袁老師である。

とても美味しかったそうな。

 

↓次第に席から立ち上がる人々。

中央のトウさんはいつも人にお酒を勧める名人だが、

この夜は自分もガッツリ飲んでいた。

 

↓しまいにこうなる。

中国南昌のパーティーはとても賑やかで明るい。で、やたら写真を撮る。

 

 

[11月1日八一公園日本語コーナー]

財大の学生たちとともに小雨の中、バス・徒歩で一時間の八一公園に出かけていくと、

すでに20人以上の参加者が東屋で雨宿りしながら喋っていた。

日本人では八木先生、高松日中友好協会の村杉先生はもちろん、

留学生の比嘉さん、江西いすゞ発動機(株)の3人組もいつものように参加していた。

地元にしっかり根付こうとする日本企業の姿勢を体現するこの3人組には、

心からエールを送りたい。

この会社は「江鈴杯スピーチコンテスト」のスポンサーも申し出てくれている。

中日関係の修復があと一歩進めばコンテスト再開に漕ぎ着ける。

(安倍さん、これ以上要らんことせんといてや~)。

 

しまった。写真を撮るのを忘れて夢中で喋っていた。

南昌大学の周先生、会社員で結婚ホヤホヤの周さん、八木先生の愛弟子の周さん、

おっと、もう一人!大切な身内、江財大4年の周文いくさんを忘れてどーする。

とまあ、最低4人は周さんがいたことを無意味に書いておく。

 

飛行機の時間があるので、早めに皆に別れを告げ、江財大の子どもたちと一緒に

いつも昼ご飯を食べていたワンタン屋さんに向かった。

 

↓この店の女主人(左から2番目、撮影のためにわざわざエプロンを外してくれた)

とも久しぶりの再会で記念に一枚。

「小さい子は前に」と李雪さんに言うと、

「私は徐蕾さんより背が高いのに~。」と不服そうな顔をしたので、

すぐに「五十歩百歩」「目くそ鼻くそを嗤う」などの慣用句を紹介する

どこまでも教師の私だった。

 

この後、女主人は「先生のワンタン代6元は要らない」と主張し、

無理やり私のポケットに6元紙幣をねじ込んだ。

私たちはおばちゃんの気持ちに泣きそうになりながらバス停に向かったのだった。

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