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世界の成り立ち




ダンスパフォーマンス好きの知人と話す機会があった。

最近何を見たかと問われたので、ロンドンでロイヤルバレエの「眠れる森の美女」を、と言ったら、
「そのバレエ団って、ベルギーには来ないの?それに眠れる森の美女はもう見たことがあるでしょう?」
と返された。



彼女は「変身」や「異邦人」など(別に何でもいいけど)を一生に一度だけ読んで終わらせるのだろうか、あるいは「モナリザ」は一回見たら十分とか、わざわざパリまで見に行くこともないと考えているのだろうか、あるいは「ベンハー」は...(以下続く)、と考えているのだろうか。


この世の中には一度だけ見て打ち捨ててよい類いのものと、わざわざ時間と金をかけて見に行ったり、何度も何度も鑑賞する価値のあるものとでできている、と思う。
当然、この世には両方とも必要であるし、ある程度までの価値付けは個人のものだ。


さらに彼女は、古典バレエは同じ内容を繰り返すだけで恐ろしく退屈だ、モダンバレエの一回性や、オリジナル性や、動きの奇抜さの方がおもしろい、と言う。
わたしはそういうものもおもしろいとは思うが、古典バレエが退屈だという意見には全く賛成できない。もし出し物が退屈だとしたら、それがモダンだから古典だから何回も見たからという理由ゆえではなく、もっと他のところ、プロットが拙いとか、演出がまずいとか、舞い手が未熟だとか、単なる好き嫌い、そういうことにあると思う。


そうだ、こんな諺があった。
「何度も繰り返し習うのは、覚えるためではない。習うたびに新しい発見があるからだ」


またいつもの同じハナシになるが、わたしが芸術鑑賞を三度の飯より楽しいと思うのは、人間が世界にどのように説明をつけるかに興味があるからである。

世界の成り立ち(われわれがどのように「人間」になったか、ということ)は謎であり、われわれには知り得ないのであり、ただ表現と解釈の多様さによってだけ現前してくるものだと思う。


もしかしたら、わたしは人間が大好きなのかも、と自問するこのごろである。

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