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ガゼボ...なつかしの大ヒット。
あの歌詞の薄っぺらさはなんだったのか、いったい。




今年はショパン生誕200年にあたるそうだ。
それにちなんで娘はショパンをいくつか練習中である。


ベルギー人の先生(彼女は日本人とベルギー人2人の先生から習っている)は、

「10歳の子どもにこんな曲を弾かせたらコンセルバトワールの審査員に注意されるのだけれど(なんとなれば弾くことは可能だが悲嘆を奏でることは無理だという理由だ)、生誕200年ですからね、特別」
とおっしゃった。


そこで大人はショパンが悲しみの中で作曲を続けたという話を娘に繰り返し聞かせて、胸がえぐられるような感情を彼女に表現させようと努めている。


ところで、感情等の表現技術を高めるためには訓練が必要であるというのは分かるが、どうなのだろう、感情というものは、自分で経験したものでなければ表現できないのだろうか?

例えばわたしなどは平凡以下の書き手であるから、自分の「知っていること」しか書けない。
だが一方、歴史に名を連ねる書き手の作品には、彼/彼女自身が経験したこと、知っていること以上のものが書かれており、ゆえに「名作」であるのだ。
例えば有名な例ではカントは自分の住む小さな街から一歩も出たことがなかったが、世界と人間に対する深い洞察を展開した、とか。
トルストイは男性なのに複数の女性が書き分けられる、とか。

楽器演奏者はどうなのだろうか?
もし極端な話、望郷と結核を経験しなければショパンの悲愴を表現することができないならば、その人物は演奏者としては平凡で終わるしかないのではないか。
人生経験に乏しくとも、自分の知っている以上の感情の表現ができるから名演奏者になるのではないか。

合理主義か経験主義か、みたいな話になるのだろうか。

わたしには分からない。



ショパンの調べを聞いていると、それがあたかも自分が経験したことがある絶望のように感じてそれに「名札」を付けてしまいそうになるのが危ないところである。

雨音がショパンの調べに聞こえてきたり...


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