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恋はタイミング ロミオとジュリエット




「二人の人間が愛し合えば、ハッピーエンドはあり得ない」ヘミングウェイ『午後の死』 より

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ロイヤル・アルバート・ホールで公演中のイングリッシュ・ナショナル・バレエ「ロミオとジュリエット」、ジュリエット/タマラ・ロホ (Tamara Rojo) 、ロミオ/カルロス・アコスタ (Carlos Acosta)の豪華バージョンで。


去年、ナショナル・バレエの「白鳥の湖」が散々だった(少なくともわたしが見た回は)のに比較し、これほどのスターを揃えられるようになった(例えば前夜はジュリエット/アリーナ・コジョカルだった)ということは、運営上の何かが大きく変わったサインに違いない...
と思っていたら、最近わたしに負けるとも劣らないバレエ・ファンに成長した娘が、去年はバレエ団が経済的壊滅状態に陥っていたのがひとつの原因であると教えてくれた。

うむ、わたしに一財産あったら絶対バレエ界の大パトロンになるのになあ、とそんな想像をするのも楽しい。しかしわたしの白昼夢だけでは誰もお腹は一杯にならないのが現実なのである。

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タマラ・ロホは円熟したダンサーだ。
しかし円熟というのは諸刃なのか、一幕目でのジュリエットのふにゃふにゃした子供っぽさ、幼稚さ、危なっかしさなどの表現力はいまひとつだと感じた。
一方、いったんジュリエットが浅はかであれ強い意思を持ち出す段階に達すると、運命に逆らおうとする力強さが大きな会場全体に響き渡り、観客は息をするのさえ忘れ酸欠状態...
すばらしい表現力だった。

また、鈍感なわたしは今まで何度も「ロミオとジュリエット」を鑑賞したにもかかわらず、なぜジュリエットが問題解決のために「仮死状態になる薬」をあおるのかが全然理解できていなかった。
ロミオとの関係を認められないがため自殺したジュリエットを哀れに思った両家の親たちが、彼女の死をきっかけに仲直りし、結果仮死から目覚めたときには結婚を祝福してもらえるだろう、というぎりぎりにかけた策略...このよくある解説が腑に落ちなかったのである。

ジュリエットをロミオに添わせるために協力するにしても、あまりにも近視眼的な解決にしかならないそんな薬を、修道僧ロレンスはジュリエットになぜ与えたのか、またなぜジュリエットはそんな薬に頼ったのか、その証拠に2人とも死んでしまうではないか...そんな愚かな選択をするのも、ジュリエットの恋愛上の錯乱状態を際立たせるためか、と思っていた。

しかし、タマラ・ロホのダンスですべてが氷解!

「仮死」を選ばなければ、ジュリエットはベローナ大公の親戚パリスと無理矢理に結婚させられ(すなわち重婚罪を犯すことにも)たからである。翌日に迫った結婚式を回避するためには彼女は死んでみせるしかなかった。

この長年の思い込みを数十分のダンスで解説し尽くしたタマラ・ロホの表現力はすごい。


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「恋はタイミングがすべてである」というのがわたしの持論だ。
ロミオは貴族の頭領息子だがいわゆる不良で、遊女と遊んだり、ナンパしたり、貴婦人に入れあげたりと忙しい。まあ青年らしく、退屈しているわけだ。彼は熱中できる何かをひたすら求めている。
ジュリエットは子供だが、ベローナ大公の親戚パリスとの結婚話がある。しかし彼女は今まで誰に対しても持ったことのない恋愛感情をパリスにも持てないでいる。自分の手を取ろうとする麗しいパリス。恥ずかしい。ドキドキする。でもときめかない。

これだけ「恋に落ちる」準備ができている2人が出会ったのである。落ちずにおられようか。

この辺りのセッティングがさすが大作家である。そういえばトルストイの『戦争と平和』のナターシャの描かれ方も「恋に落ちるタイミング」が出来上がった人物の一件不可解な気持ちの変化がものすごく巧みに描かれていると記憶しているのだが...またあとで探してみよう。


(写真は http://www.telegraph.co.uk より)
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