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日本人は抽象画を解読しようとするか




テイト・モダンをぶらぶらと。
(右はポロックのYellow Island。撮影したのは去年。ピンぼけですね...)

ぶらぶらしていたら、タンブラーで回ってきた記事を思い出した。
元記事が見つけられないのだが、こういう内容だ。

「日本人は、抽象画が何を描いているのか解読しようとする」

「日本人は、抽象画を抽象として説明なしにポンと受け入れるのが下手である」

「絵は頭で分かるものではないのに、日本人は頭で分かろうとするようだ」


どう思われますか。


わたしが最も知りたい、日本人に本当にそういう傾向があるとすればなぜなのかという理由には言及されていなかったので、自分で仮説を立てて楽しむことにする。

日本人が抽象画を抽象として受け入れられず、解読せずにいられない理由のひとつは、それはわれわれが表意文字である漢字を使うからだと思う。

例えば日本人(日本語話者は、の方が正確か)は、テキストを読む時に、漢字を「絵」として認識し、仮名を「文字」として処理しているそうだ。
人類一般が言語処理をする時に活動させる脳の「文字」分野だけではなく、日本語話者は他の人類一般が「絵」を処理する部分も同時に使用しているということだ。他の言語話者群とは異なり、ディスレクシア(難読症)が極端に少ないのもそのためであると説明する科学者もいるらしい。

おお、なんだかすごくないですか。


テイト・モダンなどでは、観光客らがガイドさんに向かって、「これ、何が言いたいの?」とか「ぜんっぜん分からないわー」などとおっしゃているのが時々聞こえてくる(わたしはこれはすごいことだと思う。分からないことを「分からない」、知らないことを「知らない」と気取らず言えること、それこそが知性の最初の発動であるからだ)。
だから必ずしも日本人ばかりが抽象画を解読しようとする傾向があるのではないと思う。しかし、まあここでは「日本人は抽象画を解読しようとする!」傾向があると仮定して話を進めよう。

わたしくしたち日本語話者は、知らない漢字をに出くわしたら、まず偏が何であるかで見当をつけようとし、旁で音を推測したりする。

そうしますよね? ね?

だから多くの日本語話者にとって、目の前の「絵」の意味が分からないというのは、落ち着かない、解決しなくて気持ちが悪い感覚なのではないか。
まるでテキスト中に、黒く塗られた一部があるのを見つけたかのように。

知らない漢字は読み飛ばしたり、文脈から推測することもできる。次に、形から意味や音を推測しようともする。気になって漢和辞典を引いたりもするだろう。漢和辞典を引くときも、さんずい、さんずい ...水関係ですな、とそう入る(例えば英語では水関係は「アクア○○」から推測できるが、「アクア」と「水そのもの」のシニフィアンとシニフィエの間には相当の乖離がある。一方で、「さんずい」と「水そのもの」はもっと近い。だって水を絵に描いたんだもん)。
これはもう身体に染み付いている脊髄反射の類いの運動なので、明日から改めようと決心してすぐに改められるわけでもない。これがわれわれ漢字使いの「絵」の見方なのだからしょうがないではないか。


「抽象画の意味が分からない」のは、「この漢字の読み方と意味が分からない」と告白するのと同じような感覚で、もしかしたら(もしかしたら、ですよ)日本語話者にとっては勉強不足、読書不足をさらすような恥ずかしさがある...まではいかないにしても、異常にひっかかると無意識に認識されているのかも。実際、「抽象画がどうも分からなくて恥ずかしい」という言い方をする人は少なくない。


「分からない!」を分からないままに経験することも美術鑑賞には大切な態度だ。画家も「分からなさ」を表現しているに違いないのだ。だって分かり切ったことを分かり切ったように描いても全然おもしろくないし、初めから何を描くか分かっていたら描く意味もない。初めから何を描くか分かっていたら...それは芸術ではない。実用工芸品だ。

しかし日本語話者が漢字を使うゆえに抽象絵画に意味を見いだそうとする傾向があるのなら、そういう見方ができるのは世界広しといえどもわれわれだけで、それはそれで特殊で大変愉快だ。
おもしろいなあ。
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