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Brugge Style
ジュリエットはフェミニストか
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ジュリエットはフェミニストである、と。
親が政治的配慮で決めた結婚相手を拒否し、自分自身の愛と意思を貫き、そのためには命を賭したということなのだろう。
何をやらせてもこっちを唸らせるサラ・ラムの幅広い才能には、わたしも惜しみな賞賛を送る。
しかしジュリエットが「フェミニスト」であるという明快な解釈にはわたしはどうしても同意できない。
以下、なぜかを述べる。
確かに、結果的にジュリエットは「伝統的な女性概念からの解放」、つまり「女はこうあるべき」という因襲的な束縛からの解放を命をかけて望んだフェミニストに見えるかもしれない。
が、それは「結果的に見たら」にすぎない。
アーティストとして、「あ、この役は手持ちのこの解釈(この場合はフェミニスト)で演じられるな」という態度は一番つつしむべきではないか思うのだ。
そうではなく、自分が演じようとする人物の、強い感情や行動はいったいどのようなものなのか、自分が今まで経験したことのないようなもの、この世にあるとは思いもしなかったようなものなのではないか、という強い好奇心と敬意こそが「芸術」への道を開くのではないか。
登場人物を既存のパターンにはめ込んでしまうことなく、「ありきたりな理屈では説明できない感情に突き動かされる人物」を、賢しらを捨て、ゼロから新たに作り上げるアーティストだけが、慣習的、因襲的な世界に生きているわれわれ観客をはっとさせ、深く感動させるのではないのだろうか。
あ、この人物はフェミニズムに目覚めたわけね、じゃこの方法で演じられるね、という態度では演ずる意味がないし、われわれだって海千山千な観客だ、やたらめったらなことでは感動させられたりしない。
まあその点を差し引いたとしてもサラ・ラムは優れたダンサーだと思う。
先日すでに書いたが、鑑賞したロイヤル・バレエのロミオとジュリエット、ジュリエットのサラ・ラム(Sarah Lamb)とロミオのスティーヴン・マクレイ(Steven McRae)のコンビは完璧だった。
主役の2人だけでなく、マキューシオ役のアレクサンダー・キャンベル初め、脇役もすべてが。
マクレイの安定感と躍動感のバランスは相変わらず素晴らしく、女性のサポートも文句なしにうまい。独りよがりな自己愛やアッピールが全くなく、きっと彼は実生活でもよい夫にちがいないと想像してしまった。
大きなお世話か(笑)。
(写真はroh.orgより)
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