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Brugge Style
ティエポロの聖なる天蓋
「ヴェネツィア派」は、1797年に消滅したヴェネツィア共和国が育んだ、芸術の流派である。
5世紀に東からの異民族の侵入を機にアドリア海の潟へと逃れた人々は、7世紀には最初のドージェを選出、11世紀には国際的に無視できない勢力となった。
その1000年の歴史の最後を飾ったと言って過言ではないのが、フレスコの名手でもあった18世紀のティエポロ(親子)である。
写真は主寝室の天蓋。ティエポロのフレスコ画で彩られている。教会の祭壇のようだ。死ぬならこのような天井を見ながら死にたい。
ビザンチン帝国の影響を受け、ヴェネツィア派の基礎をつくった14世紀ヴェネツィアーノ。
15世紀ベッリーニ一族とジョルジョーネ。
16世紀のティツィアーノはヴェネツィアを体現し、ヴェネツィアはティツィアーノを体現していると謳われたその人であり、そしてティントレット、ヴェロネーゼ。
湿気の多いヴェネツィアでは壁紙が適さず、この壁画はキャンバスを直接壁に貼る方式で、この地の独特なのだそう。
実際、触るとぶよぶよとしなる。
と、ヴェネツィアは優れた芸術家を輩出し続けたが、17世紀には社会的な衰退とともに停滞したように見えた。
ヴェネツィアの衰退はやはりヨーロッパからアジアへの直接の貿易航路が開発され、ポルトガル、スペインが自前の船で出張するようになったからでもあるだろう。
しかし18世紀になると「第二次ヴェネツィア派」が最後の花を咲かせる。
フレスコ画の名手ティエポロは、宮殿を彩る天井画に、下方から見上げることによって効果を生む「仰視法」を駆使し、天井を別世界へ続く架け橋とした。
彼の初期の作品にはテネブリスム(光と闇の強烈なコントラスト)の影響がみられ、またティントレットやヴェロネーゼをも継承、独特の透明感のある明るい画風で壁や天井を彩った。
色調は透けるように明るく、清らかで、どこか儚く、悲しげな感じがする。それは人間の世のうつろい、空疎さを表しているかのようだ。
どこか「死」の影が漂うような。
一種のヴァニタス(地上の人生の無意味さや、虚栄のはかなさをテーマにした絵画作品)、という感じがする。
祇園精舎の鐘の声に諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色が盛者必衰の理をあらわすように。
それは必滅の人の死であり、1000年を誇ったヴェネツィアの死でもあったかもしれない。
パパドポリ宮殿は16世紀半ば、ベルガモのCoccina家の依頼でGiangiacomo dei Grigiが建築した。
1748年には宮殿はティエポロ家の手に渡り、このころフレスコも描かれた。
羽振りよかったんですね!!
主階(ピアノ・ノビーレ)は、ジャンドメニコ・ティエポロ(息子)によって装飾され、父、ジャンバッティスタ・ティエポロも、天井画を描いたと推定されている。
世界に美しく居心地のいいホテルは数あれど、わたしは80年代からずっとアマンの大ファンだ。
中でもヴェネツィアのアマンは特別だ。その理由がパパドポリ宮殿をそのまま利用し、ティエポロの天井フレスコがあるからだ。
(また、国家間の経済格差を利用して贅沢をするという、他のアマンにある植民地主義的な構図が少なくとも小さいので気が楽でもある)
昔の建物を使っている場所は、こちらとモンテネグロのスヴェティ・ステファン(島ごとホテル)。どちらもトータルで最高の10/10、いや、迷わずそれ以上つけたい。
ここはヴェネツィア、東西と古今が水路のように交差するところ。
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