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誰もいない大英博物館にファラオは存在しているか




英国は隔離生活が始まって8週間目を迎えた。

先日、用事をまとめて済ませるために、車で最寄りの大きめの街に行ったら、2件済ませたところでものすごく疲れ、くたくたになって帰ってきたのだった...


一昨日はボリス・ジョンソン英首相が、新型コロナウイルス対策の見直し、見通しを語ったが、今の段階では残念ながらドイツや東欧、ニュージーランドや韓国などの回復力には遠く及ばず、今後とも隔離生活が続く見込みだ。

何が不評かと言って、みなさんが一番期待していた「同居家族以外に会うべからず」規制が見直されなかったことみたいです...


そんな日々、ふと、ロックダウン直前に訪れた大英博物館の写真を見て思った。
大英博物館、ナショナル・ギャラリーなどロンドン博物館群は常設展は無料なので、モエはふらふらと徘徊するのが常なのである。


「誰もいない大英博物館内に、ファラオ(の像)は存在しているか」

大貫妙子の『メトロポリタン美術館』によると、誰もいない博物館内ではファラオは踊りまくっているみたいで愉快だが。


もちろん18世紀のアイルランド経験主義者バークリーの

「誰もいない遠くの森の中で一本の木が倒れたとしたら、その木は音を出して倒れたか」

の、猿真似。

普通は、「誰もいなかったとしても物理法則はあるんだから音を出して倒れるでしょう」と答えるだろう。

しかし、聖職者にして経験主義者バークレーは、「存在することは知覚されることである」(To be is to be perceived)と考えたので、誰も聞かない音は当然「ない」とした。
別にバークリーが考え過ぎなどというわけでもなく、多くの哲学者はこの問いに是と答える。


誰もいない森では、誰も倒れた木の音を聞かない。

誰もいない大英博物館では、誰もファラオの像を見ない。


つまり、なにかの「存在」は、何の「関係性」もなく、素でそこに元々「在る」わけではなく、誰かに認知されることによってのみ初めて存在できる。
世界は観念なのである。

今、わたしの目の前には薔薇の花があるが、わたしがこの薔薇の花の香り、色、形を愛でたとしても、それは香り、色、形を認識しているだけで、薔薇の存在全体を認識しているわけではない。

薔薇も、ファラオ(の像)も、誰かが認知する限りにおいて誰かの意識の中にのみ存在するのであり、「実態」とはこのような同時的なる観念の束(bundle or collection of ideas)だと言うのである。


その考え方が尊い、とわたしがしみじみ感じるのは、そのように考えると、ひとりひとりが世界の「認識者」であり、それが他者(の認知)を尊重することになりはしまいかということである。

世界の豊かさよ。





この動物、特に猫、すばらしい!!
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