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onegin 2025 オープニング・ナイト


ROHから拝借


2024年も終わるというころ、ロイヤル・バレエのプリンシパルで、わたしが崇拝するMarianela Nunezが、ダンス界での長年の功績を讃えられ、Officer of the Order of the British Empire (OBE) 大英帝国勲章、将校を叙勲した。

勲章のFor God and the Empire「神と帝国のために」というモットーはいまどきどうかと思うし、傑出したダンサーに王様が賞を「やる」というのも?である。
しかも、彼女にはもっと高位が相応しいのではないか(騎士、せめて司令官)とか...


そういえば、こちらもわたしが天才だと思うエッセイスト小田嶋隆が、「イチロー、国民栄誉賞再度の辞退『まだ未熟者ですから』」というニュースに日経ビジネス上で触れた記事を思い出す。
ぜひ全文お読みいただきたいのだが、以下、部分を引用する。

「たとえばの話、モーツァルトにレコード大賞をあげようとしたら、あいつはどう言うだろう。
いや、むしろ夏目漱石に芥川賞とかだろうか。
ネタのセコさで言うなら、ジェームスディーンにベストジーニスト賞。
あるいは、大きく出てイエス・キリストにノーベル平和賞。
いずれにしても、アメ玉を貰って喜ぶのは腹を減らした人間だけだ、と。
 
そもそも、非凡な個人を、「国民」の名において顕彰すること自体が筋違いなのだな。
もうすこし詳しく言うなら、国家的な思惑や助力とはまったく無縁な地点で、一個の人間が、個人の才覚と努力を通じて勝ち得た業績に対して、お国が点数をつけるようなマネは、失礼だ、と、そういうことだ。」

小田嶋さんは数年前に亡くなってしまったが、今でも輝いている。
最近の兵庫県の知事選挙や、TV局と元アイドルのスキャンダルや、トランプ再選にはなんと書くだろうなあと常に思っている...


先日、フランスから慌ただしく帰宅したのはOnegin『オネーギン』のオープニング・ナイトに参上するためだった。

プーシキンの『エフゲニー・オネーギン』原作のドラマで、19世紀ロシアが舞台だ。

貴族の青年オネーギンの「社会も自分もこのままではいけないが、行動しようという覇気も気力もない」感、鬱屈、退屈、社会からの疎外感や八方塞がり感、シニカルさは、当時のロシア貴族社会全体の病理を映し出す。
一方、彼の苦悩には普遍的な人間性が反映されており、現代でも共感を呼ぶ人物像といえる。

オネーギンは、純粋で誠実なタチヤーナの愛を受け入れることができず、怒りと共に残酷に彼女を拒絶する。
しかし、タチヤーナが他の男性と幸せな結婚をし、自身の手の届かない存在になったときに彼女の真価を認識し、後悔する。
この矛盾した感情は、彼と社会の葛藤や迷いや未熟さを示しているといえよう。

そのタチヤーナの複雑さを演ずるのがわれらがマリアネラである。

はい、『オネーギン』というタイトルではなく、『タチヤーナ』というタイトルの演目なんじゃない? 
と思ってしまうほどマリアネラの絶対的な存在感、舞台の主催力、なにからなにまですごいのです...

オネーギンを演じたReece Clarkは身長が190センチある美男であり、特に彼が女性ダンサーをリフトすると当然高さが出、ものすごくドラマティック...が、内面の複雑さの表現があと一歩と感じた。
いや、オネーギンには内面などないのかな...

その点、前回マリアネラのオネーギンを演じた平野亮一さんの方が演技力は数段優っているというのが正直な感想だ。
なんせ、最後の永遠の決別の場面のあと、マリアネラはほんとうに泣いていましたからね!!


こちら、彼女がゲスト出演したTeatro Scala di Milanoでの動画である。
ぜひぜひご覧になってみて下さい! 
オネーギンが自分の方を見てもくれず、戸惑いながらも彼の気を引こうとするシーンである。

この角のなさ、無駄な動きのなさのが出す透明さ、音のない音との同化、バターのように柔らかい関節、バレエの技術と演技力の格といったら! 
https://www.instagram.com/carolina_cox_ballet/reel/CwSR_G2AT7w/
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