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ハレー彗星が飛んだ日 1066年



ノルマン軍は丘の下に布陣。



1066年。

ヘイスティングスの戦いは、英国島の歴史を大きく塗り替えた事件だった。

700年ほど続いたアングロ=サクソン系イングランド王国の、エドワード懺悔王の後継を主張する二人が主役だ。

アングロ=サクソン系のハロルド二世と、ノルマン(現フランス)を本拠地とするウィリアム一世の対決。

この戦いはウィリアム一世の勝利に終わり、現英国王室はこの末裔を自称する。

アングロ=サクソンとノルマンでは元を辿れば両方ともゲルマン系なので、民族が入れ替わったというほどの事件ではないが、これをきっかけに英国の社会システムは、スカンジナビアの影響から、大陸フランスの影響を大きく受ける社会になった。


週末は、イングランド南東部にあるこの古戦場を訪問した。

1000年後の今では、地形は相当変わっているものの、強者どもの夢の後をたどるのはおもしろい。

肥大した征服欲や権力欲、わたしには想像もできないが、現代でも権力に酔い利権に群がる政治家等々を見ていると相当に甘い蜜なのだろう。



勝利したウィリアム一世は、丘の上に修道院を建設した。



ヘイスティングスの戦いの顛末を絵巻にした、ひと幅のタペストリー(というよりも刺繍)がバイユー・タペストリーであり、なんとこちらにはハレー彗星が記録されている。
ハレー彗星は、何かの予兆と考えられることがあるが、この時の彗星も、何か大きな変化を表していると考えられたかもしれない。

この戦場に、ハレー彗星が現れたとしたら...と想像してみた。
人間は社会が不安定になればなるほど、何かの徴(しるし)を頼りにしたいと思っただろう。

同時期の日本の歴史を振り返っても、源義家が殿上人として武士としては初めて昇殿を許されるなど、激動の時代だったようだ。


見れば見るほど惹き込まれるこのタペストリーの実物を見に、海峡を渡ってフランスに行きたい。




英国島には、古来ケルト民族が住んでいた。

ローマ時代にその帝国に組み入れられてからも、基本的にケルト民族の国だった。

しかし、4世紀ごろに始まるゲルマン民族の大移動によって、その一部族であるアングロ=サクソン人が波及状に島へ移住してきた。

この時、押し出されたケルト人の末裔が、スコットランド、アイルランド、ウェールズ人ということになっている(もちろん「民族」がはっきり綺麗に分かれているというのは幻想である)。

新たに移住してきたアングロ=サクソンの国という意味で、のちに「イングランド」と呼ばれるようになるのである。



今では夢の跡を羊が夏草をはむばかり。


アングロ=サクソンの国はしかし不安定続きだった。

そのうちの大国は7王国(ヘプターキー)と呼ばれ、400年の抗争の後、10世紀になってやっと統一王国となるが、このころはスカンジナビアからヴァイキングがたびたび襲来、11世紀にはデーン人の王がイングランド王を兼ねたほど影響力を持っていたのである。

地図を見るとスカンジナビアと英国島は予想以上にとても近い。

11世紀、アングロ=サクソンの7王国のうちのひとつ、ウェセックス王国(今のイングランド南部地方)のエドワード懺悔王には世継ぎがなく、周辺からは国と地位を狙われていた。
そのうちの一人がハロルド二世。

さて、このころ現フランスのノルマンディー地方は、ノルマンディ家の支配下にあった。
ノルマンディはイギリス海峡100キロほどの、すぐ向こうだ。

ノルマンディ家は10世紀のロロを祖にする、元はフランスに攻め入ったこれまたヴァイキングの末裔であった。
のちに西フランク王国のシャルル三世によって封土され、ノルマンディに定住してすでに何世代かが経過し、フランス化していた。

ノルマンディ家の庶子、ギョーム二世(ウィリアム一世のことね)は、エドワード懺悔王の母エマが、ギヨームの大叔母であることで王位継承権を主張、また、ハロルド自身がかつて王位を約束したとも主張し、英国島に攻め入り、征服したのである。


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